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November 23, 2007

process

わたしにとってデッサンは物の存在を確かめるプラクティスです。修行僧のようにデッサンします。(注: サムネイルは3段階ですがクローズアップ画面は5段階に分かれています。)

click to close-up画面の中にイメージが膨らむよう、描き出しはかなりソフトなタッチで始めます。あまり強い輪郭線は引きません。輪郭線はその物質と他の物質を隔てるもの、ではなくてその物質と他の物質の関係を表すものとして引いたほうが良いでしょう。物を描くのではなく空気を描くような気持ちです。それから入れ方(構図)は大切です。それで絵の半分は決まってしまいます。妥協は禁物です。(30分。このくらい描くのはあっという間です。ただし構図がダメな場合は何回でも描き直しです。)

click to close-upわたしの場合(知ってます?天才ピカソは画面左上から順に流れ作業のように絵を描いたりしています。)天才ではないので、全体に調和を図りながら仕上げていきます。描く過程も作品の一部のようなつもりです。ひとつひとつのモチーフを描いているという意識よりは絵全体を仕上げているという意識のほうが良いと思います。(その意味ではピカソの流れ作業のような製作過程は正しく思えます。)面白いもので部分を描いていると絵のほうが次はここを描いてくれと要求してきます。ただし雰囲気に流されるのではなく、しっかりそこに存在する物が描けることは大切です。描いているうちに当然、修正箇所が出てくるのですが、それが自分自身で分かるかどうか、それがそのままその人の熟練度となるわけです。(2時間。)

click to close-up「バッチリこれで完成・・・」なんて思ったこと今までに一度もありません。毎回何か、しこりが残ります。というか自分の不甲斐なさを感じます。ん~、なんとか次に活かしましょう。(6時間。多分完成。仕上がりに近くなるほど時間がかかります。)

デッサン修行僧がとり合えず分かった!? と思っていること。
「事物の存在とは事物の関係である。そしてその関係は人間が見るという行為(意志、あるいは錯覚)によって発生する。」

October 23, 2007

blind faith

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人が何かを信じるのって、そのものの実質とかまったく関係がないですね。むしろ実質を伴わないものを人は好んで信じるような気がします。人はそれを信じている自分を信じたいのかな?

昨今騒がれている「円天」だとか「癌が治る水」だとか、あるいはちょっとさかのぼって「オーム」とかのカルト教団、冷静に考えれば絶対あり得ないって分かりますよね。なのに何故?多分、人がものを信じるってその辺の疑わしさは関係ないのだと思います。むしろ当たり前に正しいものなら信じる価値が無くなる、信仰の対象物としての価値は無くなるのでしょう。確かに宗教には教義という理屈もあります。でもそれって結局あとでとって付けたようなものばかりです。だいち、よくよく考えれば日本古来の民族信仰とかって、信仰の対象は「蛇」や「狐」や「鏡」だったりするのですよ。そこに根拠を求めるのは馬鹿らし過ぎる。実は信仰の対象物の中身、どうでもいいという事なのです。

傍から見ると「どうしてそんなの信じちゃってるのよ」と、信じている人は冷静さを、客観性をまったく欠いているように見えるのだけど、実は彼ら信じられないほど客観になりきっているんですよ。何故なら彼らは主観を喪失しているのですから。「客観的に判断」とか言うけど、それって結局主観の中、自分の持つ知識や経験の中で行う作業なのです。そうでない客観なら結局他人を受け入れる、そのまま流される自己喪失の自分が客体になりきる客観という事になる。きっと、どこかで論理のすり替えが起きるのでしょう。例えば信じさせる側(騙す側)は相手に客観を要求する。その客観は徹底的に相手を自己喪失、自己否定するように仕向けるはずです。で、実は主観を失うのって生き方としては楽だったりするのですよ。

人がものを信じるという仕組み、結構面白いですね。これって宗教だけではないですよ。意味の無いアイドルのファンになるとか、男女間の事とか、あるいは政治家を応援するとか、国を信じるとか、信じる行為全般に言えると思います。多分人間は始めに「信じるありき」なのです。それは何故なら人間は群れをなす動物で、一人では生きていけないからでしょう。で、その対象物が微妙ですね。。。害の無いものだったら好いのですけど。


September 20, 2007

chaos

If you watch from a bridge as a leaf floats down a stream, you may see it trapped by a small whirlpool, circulate a few times, and escape, only to be trapped again further down the stream. Trying to guess what will happen to a leaf as it comes into view from under the bridge is an idle pursuit in more senses than one: the tiniest shift in the leaf's position can completely change its future course. Small changes lead to bigger changes later. This behaviour is the signature of chaos.

葉っぱが小川を流れる様を橋の上から見るとき、その葉っぱは小さな渦に捕まりグルグル回転し、それから抜けてもさらに下流でまた渦に巻き込まれていたりする。たとえば橋の下から葉が視界に入ってくるとき、葉に何が起きているのか想像する事は多くの意味で無駄な追究なのだ。葉のポジションの本当にささいな変化がその未来の方向を完全に変えてしまうからだ。ささいな変化がその後、大きな変化を導く。その振る舞いこそが混沌の特徴なのだ。(またもや、くだらない受験英語問題集より)

これがカオス理論というやつなんでしょうか?入り口はまだ分かりやすいのですが、突っ込むと数式だらけで何の事かさっぱり分かりません。直観としてはこのカオス理論が理解できたからといって未来が理解できる事は無さそうな。。。学自体もその行く先は混沌かな。

つーか所詮人類に残されたのは終末論だけか!つーか単純にわたしが「嘆きの壁」?今を狂わせてしまった、その過去のささいな事が悔やんでも悔やみきれないのよ!だいたい、でも実は何がその悔やむべき事なのかもあまり良く分かってないし、だって大袈裟に悪い事は何もやってないもの。ささいな事は数知れず...ですけど。

なんだか結局わたし事でしょ。わたし自身がカオス真っ只中なんですよ。普通、この歳になればもうちょい先が見えてくるはずなんでしょうが、わたしには全然。。。むしろ若かったときの方がもうちょい見えていた?きっと何か違う世界に迷い込んだ?。。。別な言い方だとカーマ・ポリスに捕まった?。。。カルマの方がカオスより強いしね。。。(強い強くねで判断するのおもしろくね)。。。

ん~今たまたまカルマって言葉を出したんだけでど、これって結構おもしろい論点かも。だってカルマって「業」ですからカオスとは対極ですものね。西洋対東洋でもあるし論理と非論理でもある。

September 12, 2007

漠然

雰囲気的に漠然と更新です。そう、最近漠然と時間が流れます。人の作品には「あまりにも漠然と描き始めちゃったかな?」「問題意識が足りなかったかな?」「もっと見せ場が欲しかったな」などと平気で批評しつつ、舌の根も乾かぬうちに自分自身でもあまりに漠然と描いてしまいました。。。なんたること。これって人の性?あるいはわたしだけ?物事が制御できない悪い方向に進んでいく、例えば戦争前夜なんて、きっとこんな雰囲気なんですよ。良識も見識もある大人たちが相手の短所はよーく発見できて、ただし自分の短所は全然分からない。で、「とり合えず次の一手は?」で物事が進んでしまう。

ところで中教審の「武道」と「ダンス」って一体何でしょう?それもやはり漠然と決まったかな?入国管理局が絶対に難民を受け入れないのとスタンス的には同じかな?あるいは良識、見識以前で委員たちのIQ調べ直した方がいいのでない?

多分彼らは物事を善悪で見ているのですよ。善悪でものを見るって普通な気もするかもしれませんが、必ず必要な見方ではないですよね。絵は善悪では見ませんものね。彼らは自分の価値観が転覆した事がないのでしょ。世界はこのようである、という無意味な自信があるのです。狭い世界に住んでいる人たちは社会の共通認識が自分たちの行動基準になる。自分たちで作り上げた宗教と同じようなものです。単に認識に合う、合わないではなく、合ったら善、合わなければ悪、そこまで行き着いてしまう。。。でなければ「武道」や「ダンス」とい具体性にはならないと思うけどな。単一民族の共通認識を理想化した具体性でしょ。精神論で肉体鍛えなくとも、輪になって踊らなくともいいんですよ。どうして内容コントロールになるかな?単位制にして選択肢を増やすとか、そんな議論になることは決してないのでしょうね。


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September 5, 2007

違和感

最近、40,50代ターゲットの女性誌の宣伝に山本容子が出演していました。でもどう見ても違和感、感じました。他に一緒に宣伝に登場する女性たちって正直ただのモデルの、ただのおばさんたちですよね(ごめんなさい、わたしとしての正直な感想です)。その中に山本容子が交じるかな。さらにその出演の仕方もなんだか前座っぽいものでした。それはマズイでしょう。山本容子って実は棟方志功並みに日本が世界に誇れる巨匠なのですよ。。。雑誌の編集者がいかに芸術を知らないという事か?あるいはメディアのおごりか?あるいはそれこそが社会一般の画家や芸術家に対するヒエラルキー内での位置づけかな?なんだか寂しくなりました。

世俗と芸術の違いなのですけど、芸術の場合は、のちに必ず歴史的検証がなされます。最終的に愚民政治にならないのが芸術の良いところなのです。例えばアンディ・ウォーホールとロバート・ラウシェンバーグでは知名度でいったら断然ウォーホールでしょうが、やっぱ実はラウシェンバーグだったりするのですね。。。そうです。芸術的な質の高さの違いです。

「流行を作り出し、世論を操作してるのは自分たちだ。安倍政権を潰すのも、朝青龍を辞めさせるのも自分たちのさじ加減でどうにでもなる」最近のマスメディアって、こんな感じでしょうか。ただ、何とかラッセンが芸術でルイヴィトンやロレックスがマジで素晴らしいと思っている程度の価値観ではどうにもならないでしょ。だいたい良く考えれば、マスメディアこそが核心的に世俗なのですよね。多分彼ら自身がそのことを良く知っているんですね。「自分たちは決して歴史に残らない、だからどんなに厚顔無恥に振舞っても平気なんだ」ってなところなのでしょうか?

山本容子美術館
http://www.lucasmuseum.net/menu.html

August 31, 2007

どうも日本史が好きになれないの件

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どうも好きになれないのよ。日本史教科書って歴代権威を褒め称える日本教の経典かな。まず学問としてのバックグラウンドが怪しいでしょ。知ってます?古事記や日本書紀の原典ってこの世に存在しないんですよ。それからあの古語って怪しい。だって例えば明治時代と現代で言語がいかに変化したかを考えてください。なのに平安時代と江戸時代で同じ古語辞典を使って調べものができるってそんなのありでしょうか?

大塩平八郎や百姓一揆がネゲティブな社会悪として描かれ、人を殺しまくった戦国大名やキムジョンイルの比ではない徳川政権は美化され、それこそが日本の歴史と描かれているわけですよね。日本人の権威主義気質がいかように養われてきたかが良く分かります。NHKの大河ドラマって何?松平アナウンサーって何?いじめが減らない理由良く分かります。保守派政治家は道徳の時間をもっと増やせとうるさいけど、どうやら連中 moral(道徳) と morale(士気)(しかもこの場合あの連中が指しているのはどう考えも group morale) の違いも分かっていないんだよね。

権威を褒め称えるのは学問ではないよね。だったらもっと美術の時間とか増やして子供にしっかり物を見る練習をしてもらいたい。人間の目がいかに錯視だらけかとか。人間の眼はその仕組み上、暗闇に勝手に物を見てしまう。でも暗闇にはお化けはいないんだ、とか。例えばアメリカのブッシュという大統領は物が良く見えないために暗闇に自分で敵を作り出し何万もの人を殺してしまったとかね。

August 2, 2007

horizontal or vertical

ステレオタイプの人って絶対に、カメラのその造作上の特性のまま(わたしは何を言っているんだ?)、縦に構えるではなくカメラを横に持ったまま、すなわち普通の持ち姿勢のままで写真を撮るのですよ。例えば人間は二本足で立つ動物だから横に細長ではなく、垂直方向に縦長なわけですよね。にもかかわらず、彼らは絶対にガンとしてカメラを横にしたままの状態で写真を撮るのです。純粋な風景写真だったら分かるけど、横長の画面に縦長の人物を入れるわけでしょ。スナップ写真の大きさで考えたら人の顔なんて5ミリにもなりませんよ。

一体彼らは何を撮ろうとしているんだ?風景なのか人物なのか?焦点が分からんのです。肯定的に考えたとして、多分その時の記憶や雰囲気を撮りたいという意識が働くのかもしれませんが、でもそれこそやはりセンスに欠けている。例えば記憶を本当に残したいなら、わたしだったらそのとき食べたポテトチップの空き袋でも撮っておきますよ。だって退色したスナップショットなんかに記憶を洗脳されたくない。それなら個々の断片のほうがよほど新鮮に記憶を甦らしてくれるはずです。

写真の縦横なんぞに吠えても無意味かもしれませんが。正直、こういうステレオタイプ傾向、日本人に多いと思うのですよ。みな簡単にワイドショーに洗脳されますからね。写真にしても決められたスナップショット定形からはみ出してはいかんのでしょう。実際、車を買い換えるのもみなが新車に換えるからだし、ルイ・ビトンの財布を買うのも同じ理由です。

ついでに言うと日本は「美しい国」ではないですよ。日本に来る外国人(特に北米系)の人たちが、どれだけ日本の醜さに落胆して帰ることか。当たり前ですよね。ほぼ日本の全ての地域でで景観をぶち壊している電柱や、けばけばしい看板群を思い出してください。エキゾチックという言葉は使われても、美しいとは絶対に言えないはずですよ。多分安陪ちゃんの写真は全部ホリゾンタルかな?何故日本人はお花見で桜の木にプラスチックの提灯かけちゃうのでしょうか?で、酒飲んで馬鹿騒ぎですか?きっと、美しいという事にしてしまえば美しいという事になるんでしょうね。

July 24, 2007

pocari

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運命って一体何なんでしょう。会いたいなと思っている人には会えない。会いたくない人には会ってしまう。良い予感はけっして当たらない。悪い予感はかなりの確率で的中する。わたしだけなのでしょうか?昔は色んな面でもうちょいツキがあったけど、今は完全に運命に見放されている。嘆く程に良いことは遠ざかる気がする。こんなこと嘆く自体、実にネゲティブですよね。この消極姿勢がいかんのでしょうか?。。。多分。

全然関係ないですけど、今さっき色々なブログ見て回ってきました。すごくスキッとした、きれいなデザインのブログが沢山ありました。で、ここに戻ってくると。。。このブログって美術部ですね。学校の美術の教室のにおいがプンプンする。。。ただしデザイナー系ではけっしてないのですよ。何だかね?良いものなのか悪いものなのか。自然にこういうにおいを発してしまうのだからどうしようもありません。

それからさらに関係ないけど、最近「加齢臭」なんて言葉が流行っているそうな。たぶんテレビですよね。勝手に作り出すなよ。加齢臭がしたからって一体何なのでしょうか。赤ちゃんは赤ちゃん、女は女、中年は中年、人間なんだから各自それなりのにおいがしなきゃおかしいでしょ。「マイナスイオン」なんてのにはまったく科学的根拠は無いそうだし、「メタボリック・・・」だってそれって病気か?単なる中年太りのことじゃないのか?ワイドショーか「あるある」か知りませんが、世間の傾向はわたし以上にネゲティブな気がします。

(デッサンは去年、受験生と一緒に描いたものです)

July 22, 2007

pomegranate

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今日、わけあって華蔵寺公園の近くまで行ってきました。あの観覧車を見るたびに自分がもっと透明だった頃を思い出します。つーか、そんなカッコ良いものではないのですけど。。。自分物語に思いをはせるってやつでしょうか(なんじゃそれ?)。つーか、今日は暑くて暑くてね。脳みそがシュンとしちゃったわけです。

暑さに負けるのは仕方ないと思うのですけど、この湿度、じとっと感には負けてはいけないと思うのですよ。

(デッサンは去年、受験生と一緒に描いたものです)

July 12, 2007

portrait of a baby girl

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昨年描いた鉛筆デッサンです。知人の赤ちゃんを描かせてもらいました。

最近、大学時代の友人から個展の葉書が届きました。場所が遠いので行けるかどうか分かりませんが、葉書の絵はとても良い出来でした。系統でいうと現代美術のミニマル・アートです。ミニマル・アートって、その知的さ、大人しさゆえに壁にかけられたインテリアで終わってしまうパターンが多いのですが、その作品はそうではありませんでした。何かハッとさせられます。わざとバランスが崩してあるんです。 "Arthentic art changes its shape according to the person viewing it"... 現代美術は訳が分からないからと、よくこんなふうにごまかされます。でも本当の芸術はちゃんと見る人の心をコントロールするんですね。

July 11, 2007

regular

最近「標準」に拘ります。(ちなみに "regular" 反意語は "secular" 『非宗教的』です。知ってました?)いや、標準じゃなきゃいけないなんて思っていませんよ。でも群れを成す動物は群れから外れると死んじゃんです。

小学校学習指導要領
第1節 国語
・・・
第2 各学年の目標及び内容 〔第1学年及び第2学年〕
1 目標
(1) 相手に応じ,経験したなどについて,事柄の順序を考えながら話すことや大事なを落とさないように聞くことができるようにするとともに,話し合おうとする態度を育てる。
・・・
2 内容
 A 話すこと・聞くこと
(1) 話すこと・聞くことの能力を育てるため,次の事項について指導する。
ア 知らせたいを選び,事柄の順序を考えながら,相手に分かるように話すこと
イ 大事なを落とさないようにしながら,興味をもって聞くこと
ウ 身近な事柄について,話題に沿って,話し合うこと
・・・

小学国語の学習指導要領です。いきなり物凄く微妙だと思いません?。。。「こと」と「事」の事です。微妙に、しかし確実に使い分けていますよね。「こと→行為」、「事→事柄」とでも表記し直してくれたらもっと分かりやすくなるのでしょうが、敢えてこの「ひらがな」「漢字」の違いで押し通している。日本語は中国由来だからもとは当然漢字しか無かったでしょうし、国語表記に関する法律なんて多分無いですよね。だからあくまでデファクト・スタンダードで押し通している訳ですよ。一国の教育を牛耳る機関、文部科学省の定めた国語指導要領がです。いや、別に批判しているのではありません。素晴らしいと思っているのです。だってこの非合理さがアメリカとの違いですからね。本当の意味での「標準」を持たない連中は何でも法律に頼ろうとする。何でもロースーツで何でもバーゲニング・ツールなんだからやってられません。ところが日本では大本営がこの非合理を強く推奨している訳です。

だいたい、合理や理論だけを追うならマン・メイドの法律など信用できるはずないのですから。何故にアトーニーちゃんたちがベンツを乗り回せる世の中なのか?彼らに本当に論理を理解できる頭と、それを追究する信念があったなら、文系の仕事など選んでいないはず。例えるに、「これは論文ではない」などと実際にはたいした論理的な思考などできない大学教授が、生徒の書いたレポートを重箱の隅をつつくように粗探しをしている。。。極めて不完全な社会なのですよ。この社会は。

言っている事、自分でも分からなくなってしまいました。最初に書いたように "regular" 「標準」は実は「宗教的」という意味であったりするのです。標準=論理だとか、論理的であるべきだみたいな考え方は実は危険だったりする。

June 30, 2007

filthy lucre

「お金を儲けることは悪いことですか?」

誰かこんなこと言ってましたよね。最近こんな奴ばっかですね。お金は単に結果ですから、言い換えると「結果がすべてではダメですか?」みたいなことになるでしょうか。結果がすべての世界は複雑な判断基準がない、いわば哲学のない頭の悪い世界です。

汚くお金を儲けるのは、やっぱ差別されなきゃダメでしょ。詐欺やインチキ(汚職、横領、贈賄、収賄、談合...)は当前のこと、ギャンブルのディーラー(パチンコ関係とか)、風俗関係(それらに不動産貸すのだって同じです)とか、やっぱ汚い系の仕事なんですよ。日本では金があれば皆同じ金持ちで済んでいるでしょうが、世界標準はそうではないですよね。

最近、NTTの光云々とかKDDI、ソフトバンクだの電話を使ってのしつこい勧誘にもいい加減堪忍袋の緒が切れます。ひどい業者になると嘘を使って電話料の支払い明細の中身まで探ろうとしますから。手段を選ばないってやつです。正直どこからが振り込め詐欺の世界なのか分らなくなってしまいます。大手電話会社が平気でそういうえげつない業者に業務委託してるわけですよね。あのね~、そりゃ手段を選ばないのだったら金儲けできるでしょうよ。私だって手段選ばなければもうちょっと金持ちになれてますよ。でも人格として組織の品格として、して良いこといけないことデモアケイトできなきゃ。法律とかルールの問題ではなく人間の格としてです。

例えば絵画制作において、もし「結果すべて」だったら人に鑑賞される表面の0.1ミリ厚の部分だけが作品として成り立っていれば良いということになりますよね。でもパソコンのジェットプリンタじゃないんだからそんな制作の仕方、不可能です。仮にそんな作品があったらそれこそインチキでしょ。だいち本当のプロのデッサンや油絵はどんな制作途中段階でも作品としては成立していたりするんですよ。表面を繕う必要などないんです。未完でも作品として成立してしまうのだから。それがプロのスキルであり哲学だったりする。セザンヌの塗り残しだらけの未完成の油絵はちゃんと作品として成立していますよね。

何でも同じお金じゃないんですよ。どんなに一流大学出のエリートであろうが物、金しか見えていない奴、ミートホープのブチャー出の社長と頭の中まったく同レベルですよね。途中の判別式は難しいから放棄ですか。一番単純な価値基準で済むのだったらそんな楽な話はない。でも人間ですからね。人はパンのみに生きるにあらず、ですからね。

追記:最近めっちゃコメントスパムが多いのでCaptchaプラグインを導入してみました。ちょっと読みにくいかもしれませんが、コメントの際にはコードの打ち込みをお願いします。

June 28, 2007

pansies


最近絵を描いていません。これもあまり良い出来ではないです。

今日久しぶりに髪を切りに行きました。半年ぶりです。半年ぶりと言ってもめっちゃ伸びたという感じではありません。何故ならずっと一人フラワームーブメントをやっていますから。

でも今日はきつかった。。。家に帰ってからも暫く苦しみました。
自分のようなロン毛は床屋でなく美容室に行くのが妥当かと思うのです。でも美容室って仰向けの姿勢で洗髪されるのです。実はあの仰向けでやや頭を垂らす姿勢が自分にとってはまったくもって耐え難いのです。更にその姿勢を元に戻すとき...たった1回のその動作で三途の川が見えそうになります。あるいはブランコ100回漕いだのと同じダメージです(泣)。多分、多くの人にはまったく理解してもらえないでしょう。
自分の場合10年程昔にメニエールを患ったことがあるのです。それ以来三半規管が非常に弱くなってしまった。人間の体ってほんと微妙というかデリケートというか、耳の奥にあるちっぽけな器官が壊れるだけで、世界がぐるぐる回りだして歩くことも出来なくなるのですから。

なんだかね。。。せっかく山田さん(美容室のおねえさん)とも顔見知りになれたのに。気持ち的にはまったく萎えてしまいました。

June 21, 2007

ばか宣言

最初は「私は馬鹿だ宣言」というお題で書き出したのだけど、それでもまだテレがある。単純に「ばか宣言」でいいかな。

やっぱこれは外せません。こうしてブログ書き始めると、ついついおかしな自問自答が始まる。「こんなこと書いていいのか?」「こんないい加減でいいのか?」...確かに自分自身かなり不完全な人間で、記事内容、文章等、並み以下のレベルだということ、いちいち宣言などしなくとも、ちょっと読んでもらえれば容易にご理解頂けるわけです。が、自分自身の精神安定上やはりこの宣言は外せないんですね。。。

大体ね、今この時点でもこの文章「である調」でいこうか「ですます調」でいくか、そんな初歩的なことで悩んでますから、信じられます?そのレベルですよ。しかもブログ書き始めて数年経ってるのに。

逃げといえば逃げだし、実際自信無いわけですから。素直に自分を曝け出すというのは、ブログ上だけでなしに生きる姿勢としても大切かなと思う今日この頃なのです。

(あの...英語に arbitrary 「恣意的な」という単語がるんですよ。でもその単語の仲間の arbitrate や arbiter は「仲介する」や「仲介者」という意味なんです。物事を正しくはっきり発言したければ馬鹿として、恣意的に無責任に言うべきものなんですよ。統計や理詰めを使った証明をするのは思考停止の殺人行為、あるいは事物の存在否定にあたるんです。そういう輩は「ばか宣言」する私より遥かに馬鹿だったりするんですね。これが。...理詰めでは個としての物を見るだけで、関連は見えません。関連で事物は存在して、生きていたりするんですよ。さらにその関連自体も生きていて変化する。ならばそれは捕らえるものではなく、促すものなんです。例えばこれってピカソがどうしてあんな絵を描いたのか、ピカソが恣意を使った理由にも通じるわけです。)

June 22, 2006

梅雨の花


ところで何故に髭や髪の毛は伸びるのでしょう?植物が成長するには新しい葉を作るなり花を咲かせるなりの理由がある。でも髭や髪の毛はあまり大した理由ではないですよね。だいち、放って置いたらどこまで伸びる気なのでしょうか?体毛2ヶ所(脇と大切な部分)は確認済みです。でも髭と頭髪は分からん・・・。今まで髭も5cm程度までは伸ばしたことはあります。でも放って置けば多分もっと伸びます。自然に抜け落ちるということはあるのかな?

と言うことで、どうでもいいことを書いてしまいました。何故か更新出来なかったんですよね・・・。

世の中憤り、沢山ありますよ。政治がどうこう、社会道徳がどうこう、だったらまだブログにぶち撒けられるのですが私的な事はそう簡単にはいかない。更にその私的な憤りが自分の憤り量の中で90%を超えたら・・・なんですよね。まあ鬱ということにしておいて下さい。

May 5, 2006

怒りの琴線

最近この歳になって漸く少し判ってきました。人間どんなときに「怒り」が発生するのか。それって「期待」なんですよね。期待と言っても二通りある。ネゲティブなものとポジティブなもの。喧嘩するときでさえ人間って相手に期待するのです。相手は自分に対してこんな不当な事をしてくれるんじゃないか、自分の弱点はこの部分だからそこを突いてくるんじゃないかとか、そんなネゲティブな期待を相手がその通りにしてくれると更に怒り心頭になる。

いやこれに関しては過去の経験から多数検証済みです。皆さんも同じような経験はきっとある筈です。例えば自分がレストランの席に座って、ウエイターの溢した水が服に掛かったとします。多分それが突然だったら何が起きたか判らないしそう簡単には怒りは発生しない。ただ、一目でこのウエイター何か危ういな何か仕出かしてくれそうだと思い、それが的中してくれたとき「あ~あ、案の定だ!」なんて状況になる。また、それが突然でこちらがまだキョトンとした状況でも、その後のウエイターの対応次第でいくらでも状況は変わってくる。例えばウエイターが「申し訳ございませんでした」と謝罪し適切な処置をとってくれればそれはポジティブな期待に沿うものだから怒りは発生しない。でも期待しないような…いや実際は期待しているのです。この店員、もしかしたら最悪の発言と行動をするのでは…というネゲティブな期待に沿ってくれた場合、怒りは爆発する。

親子喧嘩で繰り返される光景、「全然勉強してないじゃないか!」「今やろうと思ってたのに!」なんて、まさにこのネゲティブな期待の堂々巡りなんですね。こういった仕組みが判れば工夫次第でなんとか喧嘩にならない、先んじて喧嘩をしない方法が見つかるような気がするのですが…。例えば相手の弱点は突かないようにするとか、突然の場合でも相手のネゲティブな期待の更に逆を突く訳の判らぬ反応をとるとか…。

まぁ、でもこの「期待」というもの自体が実に厄介だったりする。何故なら期待というのはあくまで自分の作り出す物語の世界なのですから。極めて自己中心なのですね。たとえそれがポジティブなものであったとしても事実がそれに反するものなら、「期待を裏切られた」なんてなるのです。裏切られるって、事実はただ自然に流れただけの事であり、実際は私たちの主観と違っただけなのです。

と、なると「期待」を持たないのがベストなような気がするのだけど…それをするのは在り得ないほど至難の業ですよね。ん~だいたいそれが出来たとしても感情の無い棒人間のようになってしまうかもしれないし…。

期待と怒りの公式
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