日本史必修化
神奈川県教育委員会は14日、学習指導要領で選択科目となっている日本史を、全県立高校152校で必修にすると発表した。(2008年2月15日 読売新聞)
だそうです。自分で確立できていないアイデンティティを他のもっと大きなものへの依存によって補いたい。依存や寄生によってしか自分の存在を確立できない。こんな大人が一杯いるのですね。たとえそれが虚構で、空想の世界であったとしても皆で信じ込めば真実に変わる。「美しい国」ばんざい。「国家の品格」ばんざい。大人の塗り絵がんばってね。
神奈川県教育委員会は14日、学習指導要領で選択科目となっている日本史を、全県立高校152校で必修にすると発表した。(2008年2月15日 読売新聞)
だそうです。自分で確立できていないアイデンティティを他のもっと大きなものへの依存によって補いたい。依存や寄生によってしか自分の存在を確立できない。こんな大人が一杯いるのですね。たとえそれが虚構で、空想の世界であったとしても皆で信じ込めば真実に変わる。「美しい国」ばんざい。「国家の品格」ばんざい。大人の塗り絵がんばってね。
"different"は「異なった」「独特の」という意味ですね。だとすれば、その言葉に"in"という否定の接頭辞が付いた"indifferent"は「異なっていない」すなわち「同じ」となるはずです。しかしそうではありません。その言葉の意味は「無関心な」「冷淡な」「どうでもよい」となります。
多分実際の言葉の成り立ちとしては、二つの物に差異があるかどうかによって起きたのでしょう。
例えば、今眼の前に二つのパンがある。それを二人の人間が食べようととしている。しかし、あきらかにそのパンには量的に差異がある。この場合は二つのパンは"different"「違う」となるわけです。二人の人間はパンの取り合いのため、戦いを始めるかもしれない。一方その二つのパンが量的に差異がない場合は「差異がない」→「どうでもよい」となる。二人は戦いをしない。そして実はこれが"indifferent"肯定派の論拠でもありますね。差異は良くない。当然です。しかしそれを無くすためにどうするかということなのです。わたしが思うに彼ら、論理的に一つ飛び越えてしまっている。これって現代社会を表出する陥穽な気がします。当然誰しも差異は嫌です。平等に物を分け合えば戦争は起こりません。だったら差異を無くすよう努力をすればよい。多分世の中「同じ」、あるいは何かが公平に分配できるなんてことないでしょう。しかし分配の努力は無駄ではないはずです。しかし彼らはそれを飛び越え「どうでもよい」肯定になってしまう。わたしが言及していることわかります?例えば社会主義、資本主義の二大イデオロギーの現状に近いですね。片方が実践として頓挫してしまったために、もう一方に全ての重心が移行してしまう。しかしその一方もはなから充分に完結できる体系ではなかったのです。よってミディオーカーはいつでも一番安易な道を進むことになる。
今挙げたのは人対物の例ですが、人対人の例はもっと面白いです。人間には本能として「群れ」があります。
人間は他者と同じであることを本能的に望むのです。それによって男女は結ばれ家族ができ社会ができる。しかし実際は他者と自分が同じになることはあり得ない。"same"はあり得ない。同一だと望む人間ほど傷つくことになります。よって人は傷つくことを回避するがゆえに"different"のもう一つのアントニム"indifferent"を選択するしかなくなるのです。わたしが思うに自己を確立していない人ほどこの傾向は強くなる。例としてはいまいちですが、イージーライダーが撃たれたのは彼らが麻薬を吸ったからでもお金を盗んだからでもないですよね。彼らは、彼らを撃った南部の青年から見て単に異物だったからです。異物に攻撃をしかけるのは差異に対する脅威から起きるのです。発生においては"indifferent"の冷淡さと同じ場所、すなわちアイデンティティーの薄さです。
世論というのは、戦争責任者、独裁者、巨悪、等々個人としての悪に焦点を当てたがるものです。しかし個人の悪の力など実は微々たるもので、それを支えているのは社会の"indifferent"派だと思えるのです。世論というのがまた曲者でね、ときに"indifferent"派そのものの意志であったりする。エンデの世界で言えば「無」や「灰色の男達」、あるいはどこかで聞いたブルーミーニーズのような観でしょうか?荒唐無稽ではないですよ。かなり強い力です。だからわたしは国民投票制も反対なのです。人間の科学はこれほどまでに進歩したのに、何故新しい、お金や富の分配に関する体系はできないのでしょうか。個人や個性の差異は当たり前に尊重し、物質的な所有の差異はなるべく少ない方向にする。そんなに難しい事でしょうか・・・。
array, allay, ally, alley これらの単語の違い分かります?多分まじめに英語に取り組んできた方なら誰でも分かる。でもわたし、未だに意味もいい加減だし、発音もひじょうにいい加減です。この程度がもはや、自分の限界点なのでしょうか。。。
面白いもので、中学生で英語が苦手な子の共通点は these, those, there, their, they'er 皆この辺の単語の違いが分からない。もっと厳しい場合は this, that ,it の違いも分からない(この辺になると日本語の問題かな?)。昔、荒井注(ドリフターズ)のギャグで "This is a pen!" なんてのがありました。あの頃は小学生でも this の意味を知っていたのです。要するに言葉って、どれ程慣れ親しんでいるかって事なんでしょうね。例えば、初めてある双子の兄弟に会ったとして、最初違いは全然分からない。でも親しくなれば間違える事などまず無くなる。むしろ、「どうやったら間違えるの?全然違うでしょ」ってな感覚になる。そんなものなんです。
それから最近の中高生ってほとんど洋楽聴かないですね。昔はクラスの中にツェペリン派とかビートルズ派とかいて何故だか対立したりしていた。下手すると今でも対立してたりする。ところが今どきホワイトストライプ派とスフヤン派の対立?とか聞いた事ないですもの。前に女子高生に洋楽の事尋ねたら、どうやらストーンズ、レッチリ、グリーンデイが同一線上なんですよ。どうもついて行けなかった。逆に言うと、洋楽を聴かないのにもかかわらず英語を勉強する今の中高生って、実は立派なのかもしれません。
つーかようやっと更新してます。最近何なんだろう?そんなに忙しかったか?
つーか色々言いたい事はあるんですよ。亀田家の事とか(あれはテレビ局が悪いよね)、小2生刺殺事件の事とか(弱者が弱者を狙う事件です。そういうのって全部社会の歪ですよね)。...とり合えず今日はここまで。
どうも好きになれないのよ。日本史教科書って歴代権威を褒め称える日本教の経典かな。まず学問としてのバックグラウンドが怪しいでしょ。知ってます?古事記や日本書紀の原典ってこの世に存在しないんですよ。それからあの古語って怪しい。だって例えば明治時代と現代で言語がいかに変化したかを考えてください。なのに平安時代と江戸時代で同じ古語辞典を使って調べものができるってそんなのありでしょうか?
大塩平八郎や百姓一揆がネゲティブな社会悪として描かれ、人を殺しまくった戦国大名やキムジョンイルの比ではない徳川政権は美化され、それこそが日本の歴史と描かれているわけですよね。日本人の権威主義気質がいかように養われてきたかが良く分かります。NHKの大河ドラマって何?松平アナウンサーって何?いじめが減らない理由良く分かります。保守派政治家は道徳の時間をもっと増やせとうるさいけど、どうやら連中 moral(道徳) と morale(士気)(しかもこの場合あの連中が指しているのはどう考えも group morale) の違いも分かっていないんだよね。
権威を褒め称えるのは学問ではないよね。だったらもっと美術の時間とか増やして子供にしっかり物を見る練習をしてもらいたい。人間の目がいかに錯視だらけかとか。人間の眼はその仕組み上、暗闇に勝手に物を見てしまう。でも暗闇にはお化けはいないんだ、とか。例えばアメリカのブッシュという大統領は物が良く見えないために暗闇に自分で敵を作り出し何万もの人を殺してしまったとかね。
YouTubeで面白いものを見つけました。
"Did You Know; Shift Happens - Globalization; Information Age" 動画を開く
中国の人口25%の最もIQの高い人たちの数は、北アメリカの総人口を上回る。インドでは28%。中国はまもなく英語人口で世界一番になる。
アメリカのインターネット普及率は世界で20位である。(ルクセンブルクにちょうど抜かれたところ)
任天堂は2002年に1億4000万ドル以上を研究開発費に投資している。アメリカ連邦政府が教育の研究導入費に使ったのはその半分以下である。
去年アメリカの8カップルに1つはオンラインで知り合い結婚している。
毎月27億以上の検索がGoogleを使って行われている。 B.G.に(Google以前)これらの質問は誰にされていたことになるんだ?
...
後半の技術革新やその予言についてのことは省略します。(多分この映像が作られたのは数年前でしょう。ということは技術革新についてのことは、この映像自身が言っているように内容はすでに時代遅れということになる。)
アメリカとアメリカ人の馬鹿さについてはもう分かりきっています。第三次世界大戦が起きるとすれば必ずそれはアメリカ人のせいです。自己肯定しかしない彼らの知的レベルの遅れのせいです。まぁ、ほとんどの日本人も同レベルですけどね。面白いのは"B.G."という表現ですね。確かに、インターネットで検索して情報を手に入れる以前の時代ってどんなだったけ?と思います。わたしの場合図書館で調べる以外方法無かったな。で、だいたいの場合、分からずじまいで泣き寝入りでした。あるいはテレビのいんちきネタを盲目的に信じ込んでいました。(いまだにそういう人は多いかな)インターネットの情報の蜘蛛の巣がやがては脳細胞のように地球を覆いつくして...確かにそういう時代に踏み込んでしまったのだから何らかの変化は起きるのが必然でしょう。
国道50号を走っていたら「8月は道路ふれあい月間」と電光掲示板に流れていました。この暑いのに道路の上でみなと触れ合うのか?あるいは灼熱のアスファルトにタッチして我慢比べでもするのか?色々と考えてしまいました。
簡単な論理学です。
(命題) 軍隊とは → 軍事力(武力)を行使する武装組織である(逆) 軍事力(武力)を行使する武装組織は → 軍隊である
(裏) 軍隊でなければ → 軍事力(武力)を行使する武装組織ではない(対偶) 軍事力(武力)を行使する武装組織ではないなら → 軍隊でない
論理上、命題が真の場合は対偶も真です。自民党の改憲案をご存知か?彼らは憲法9条の戦争放棄(武力行使の放棄)はそのままに自衛「軍」を持とう、と言っている。でもそれは論理学上、頭悪いんです。憲法が頭悪いと国民全体が頭悪いと思われてしまいますよ。
それからよく言われる「国だから軍隊が必要だ」という理屈も極めて数学的ではない。
国ならば → 軍隊を持つ
十分条件 必要条件
でもね、十分条件必要条件が成り立つのはあくまでその命題が真のときのみです。元の命題は全然真ではないでしょう。先例と同様に対偶を使うと「軍隊がないならば国ではない」ということになってしまう。現に今まで日本国は、客観的にも主観的にも概念的にもしっかりと国だったはずです。「~が必要」と必要条件に見える錯覚を起こさせているだけなのです。
小さく細かなことがボディー・ブローのようにジワッと効いてくる今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。 私の場合は今日、小学1年になる姪に「こんなふうに磨ける?」と言って超高速 teeth brushing を見せてあげました。ところが反応は、「ハァ~(それがいったい何なの)」という溜息。。。小・中学生ごときにこの哀愁を帯びたナンセンス芸を理解されてたまるか!
で、clash, crash, crush の違いなのですが、発音は "l" と "r" の違いこそ少しは分かりますが、いざその一言だけを聞くとまったくもって判断できません。
さらに意味の違いなのですが、これもまた似ている。
それからついでに curve, carve, curb(kurb 英)です。こちらの発音の聞き分けはほぼ不可能。 "v" と "b" の違いはわたしには判断不能です。ただ意味はまったく違うので問題ないと思います。
高校は勉強するための場所ですよね。今まで小中学校の授業崩壊やクラス崩壊が言われましたが、教える内容、カリキュラムの体裁はとり合えずまだそこにありました。でも、もし教える内容自体が体を成さなくなっていたら、ほんと、それはもう制度の崩壊です。多分殆どの人たちはその異常さに気づいていません。大人は高校の授業内容がどんなものかなんて知る由もないし、当の高校生はその異常なプログラムしか知らないのだから抵抗のしようがないのです。
常識では考えられない。想像を遥かに超えている。。。私の知っている地方の進学校(全国的には中程度)では、1年1学期の授業で数Ⅰの教科書の3分の2を終了させ現在、数Ⅱの高次方程式も終わらせています。1年の1学期で、ですよ!高校に入学してから正味まだ2ヶ月半ですよ。実際、生徒に聞くと1回の授業で教科書10ページ程度軽く進むらしいです。と、いうことは教師はマシンガンのように物凄い勢いで真剣に教えているのでしょうか?いやいやそれじゃ教科書は進みっこない。生徒たちに「これ、やっておけよ」で終わりなのです。しかも今の高校生たちは「ゆとり教育」のお陰で中学時代、不等式さえ習っていません。ご存知でしょうか?「不等式、連立不等式、解の公式、複雑な因数分解」皆、今の中学数学では削除です。例えば私たちの時代は今挙げた内容は中学ですべて習いました。それでも高校数Ⅰを終了させるのに1年かけた。さらにそれでも理解するのに四苦八苦した。ところが、解の公式も使い慣れていない、というか今習ったばかりの生徒達が3次、4次方程式を無理やり解かされているのです。生徒達の負担は相当なものです。皆が皆、理科系に進むのではないし、東大に行く脳みそを持っているわけではないのですよ。これはこの高校に限った話ではありません。全国的に中の上以上のレベルの高校はすべてそんな感じの授業を行うはずです。
で一方、俗にいう底辺高校がどのような感じの授業をしているかご存知でしょうか?例えば英語の授業で彼らが使う実際の教科書を見たら驚きますよ。はっきり言って中学1年の教科書と大差ありません。その教科書を1年ではなく1年半もかけてやっと終わらすのです。生徒が分からないから?いやいや、確かに英語が苦手な子はいるでしょうがそこまではひどくない。実際そのペースで授業を進められると、大体の生徒は逆に中学時代には覚えていた単語や文法も忘れ去ってしまうのです。分かろうが分かるまいが英語は勉強する必要がないという世界に突入してしまうのです。
信じられますか?この両極端化。英語に関してさらに付け加えれば、進学校の授業はそれって何という感じです。中学生の単語能力に毛の生えた程度の高校生たちに「中原道善(日本英語教育の元凶?)監修」の学術論文のような英文解釈問題を解かしているのですから。多分彼らの語彙力は英語ネイティブの子供に例えれば小学1,2年程度のものです。その子たちが学術論文を読めると思います?結局言語を学ぶのではなく、いかにパズルを解くか、のような勉強になってしまう。実際、彼ら殆どは「r」と「l」の発音の仕方も分かっていないのですよ。それじゃダメでしょ。おかしいでしょ。
進学校でも底辺校でも、一部東大クラスの子供を除いて殆どの子が英語も数学も嫌いになりますよ。だったらこんな訳の分からない授業のメリットは?。。。あります。学校の教師にとってはこんな楽な授業はない。基本的に殆ど教えなくて済みますから。進学校なら上記したように「やっておけよ」で済む。底辺校なら「やってもやらなくても、どっちでもいいや」で済むのですから。。。多分、もう高校という教育システムはいらないのじゃないかな?だって学校は「教える」ことを放棄してしまったのですよ。
でも思うに、実はこれって英文法自体の性善説、性悪説じゃなくて、著者が読者をどう捉えているかの性善説、性悪説なのですよ。英語は文法ではないとする側は読者がもうある程度文法を知っているという「読者は善」説に立っている。一方、英語の文法は大切側は、読者は文法を知らないという「読者は悪」説の立場になるわけです。だから前者は「文法はもう二の次でいいでしょ」となり、後者は「もうちょい文法を知ったほうが良いよ」ということになる。で、自分の考えを言わせてもらうと、読者という言葉をその通りの言葉と限定して実際にそれを買って読む人とするならば、当然勉強しようという意志があるのだからその時点で前者(読者善説)は正しい。でも、もし読者をもっと幅広く殆どの日本人と捉えるならば、多分、いやまぎれもなく後者(読者悪説)が正しい。
まず最初に言っておきますが、文法は知っていて当たり前なのです。文法を完全否定するのはあまりに馬鹿げている。だってここは日本です。日本では英語を日常語とする機会はほぼ皆無なのですから。ネイティブ・イングリシュ・スピーカーでもないのに喋りながら覚えるは通用しません。小学生を過ぎてから英語を学ぶなら文法は避けては通れません。そして日本では中学の義務教育から文法を含めて英語を習うわけですよね。その事実をすれば前者は正しい。ところがどうでしょう、高校を卒業したとしても私は英語など全然分かりませんと言い出す人達が出てくるのですよ。だったら今度は後者が正しくなる。例えば今中学3年生に「in」や「on」の品詞を尋ねてどの程度答えられると思います?40人クラスで多分10人もいませんよ。だって学校で教えていないのですから。多分30代、40代の世代はこれを聞いたら驚きますね。でも本当なんです。喋る事に重点を置いた学校英語は喋れるための授業を強化した?…ではなくて、単に文法を削ってしまったのです。TOEICの世代別平均点などを調べれば明らかに今の10代、20代の世代の英語力が劣っているという統計が出ていますよ。もしそうだとすれば、今度は世代別性善説・性悪説になっちゃう。(きりがありませんね。)
まあ、責任の所在は明らかです。文法の是非というのも見当外れなのです。実際問題として大変な思いをするのは文法を教えて貰えなかった世代ですね。ただでさえ英語を使わない日本で、しかも文法の知識無しで英語を習得しなきゃならない…。それって、不可能って事ですよね。
あのね、今さらなんだけど "will" と "be going to" 違い分かりました。それってね、男と女の違いなんです。
英語の文法をちょっと突っ込んで勉強した方なら will と be going to が同じものじゃないって知ってると思うのですが、自分自身は上手く表現しようがなかった。例えば will は「強い意志」「避けられない未来」だと言ったりする。しかしかなりの割合で、 "OK, I'll do it." なんて、明らかに今「思いついた事」、物凄く軽い使い方もするんですよ。一方 be going to はこれからの「予定」。でも予定って言い方も極めてあやふやで、予定なら当然意志も含んでいる事になってしまう。したがって学校の先生によっては be going to が「意志」になったり、 will が「意志」になったり、全くまちまちに説明が違うなんて事があるのです。あるいは「意図」「意志」という言葉で分ける人もいますが、それでもちょっとね…。
なんというか、それって未来を表す時間帯とか観念の違いじゃなくて、意識の違いなんです。しかも意識の区画の違いじゃなく、階層の違いなんです。そしてそれは男と女の違いに非常に良く似ているのです。正直、女性はしょっちゅう "I'm gonna ~"って使うような気がする。何故なら彼女らは「現在」に生きてるんですよ。一方男の方はあまり現在には生きていない。未来かも過去かもしれないし、と言うより「うわの空」に生きているんです。何だか女性批判になってしまいそうだけど、女性はいつも目先ばかりを見る。目先といっても一番近い目先です。今日と明日なら今日を選ぶし、明日と一年後なら明日を選ぶ。でも男の場合未来は単なる「先」なんです。そして先は分からないこと、そんなに簡単にコントロールが及ばない所なんです。でもって明日に備えるのは女性の方が得意かもしれないけど、一年後に備えるのは男性の方が得意だったりする。まぁ備えるといっても、「うわの空」でなんですけど。(自分の身近な所で、男女間の受験勉強での差とか見ていると結構当っている気がする。)でも、ということは例えばもっと現実的な備え、金銭面や保険とかは「現実=現在」だから女性だったりする。
男の持つ未来、女の持つ未来、明らかに違うような気がするんですよ。それって良く考えるとショッキングですよ。だって同じ世界に住みながら実は流れる時間、時間感覚が違うってことです。また女性批判になっちゃうかもしれないけど、よく男性に自分と同じ価値観を(強く)求める女性っていますよね。それって男女のこういった意識の違いからして物凄く難しい事のように思えるのだけど…。(言っちゃって良いでしょうか…正直無理!!)でも現在に生きている彼女らはそれを押し通そうとしたりする…。ん~。そしてその違いって will と be going to の違いに非常に良く似ているわけです。女性は男性が使う will をルードに感じるかもしれないけど、男性は女性が使う be going to を結構きつく感じたりします。
それから文化論で言うと日本は will の国です。アメリカは be going to の国です。ということは日本の男はもっとも will な人種かな(良い意味で…)。
学びました…。
今頃何を言っているんだ、と笑わないで下さい。自分が学生だった頃こんなこと勉強としては誰も教えてくれませんでした。でもやっぱ知らなきゃダメです。今時の高校生、羨ましいです。
www : World Wide Web / そしてそれを開発したのは「欧州核物理学研究所 (CERN)」だそうです。何だか意味有り気でしょ。こんなんでいいのでしょうか?書いているうちに何だか泣けてきました。
LAN : Local Area NetWork
WAN : Wide Area Network
TCP/IP : Transmission Control Protocol/ Internet Protocol
URL : Uniform Resourse Locator / ユニフォームを着替える場所・・・(ウソ)
http : Hyper Text Transfer Protocol / protocol とは「儀礼上のしきたり」
html : Hyper Text Markup Language / ハイパーなんです。
Javascript : そのまま / 何故?
CSS : Cascading Style Sheets / cascadingとは「滝のように落とす、段落的に行う」
CGI : Common Gateway Interface
Perl : Practical Extraction and Report Language
PHP : Hypertext Preprocesser
JSP : Java Server Pages
ASP : Active Server Pages
RDF : Resource Description Framework
RSS : Really Simple Syndication / リアリィ??
XML : EXtensible Markup Language
Atom : 原子です。…やっぱし…原子です。
そして
db : David Bowie
日本人って学問においては絶対的に不利ですね。元素記号ひとつ覚えるのにも英語ベースの人たちの方が絶対的なアドバンテージを持っている。ましてやコンピュータのプログラミングの世界など殆ど英語そのままですから。変数名 $str って何のこっちゃと思いきやただ string (一列) だし、$var って何の略だと思いきや variable (変数)、 まんまだし。
例えばね、日本では今小学校の国語教育とかやけに力が入ってるのですよ。「実際」「組織」「構築」こういう漢字何年で習うと思います?小学5年ですよ。…そうだったけな?自分は中学校でやっと習ったような気がするのだけど。とにかく結構難しい漢字教えていますよ。他の教科はガンガンに削除されているのにも拘らず。…確かに漢字読めないと困るけど日本でずっと暮らしてれば、やがてはどうにかなりますよね。それより、もし日本が本当に世界に負けない国になるつもりなら…。教育が体制に左右されるって、もう当たり前過ぎて誰も疑問すら感じないのかな?教育の保守化、もうちょっと考えなきゃね。
"challenge" 辞書で引いても「挑戦する」、誰に聞いても当たり前のように「挑戦する」と訳される言葉だけど、まずそれはやめた方がよい。 "challenge" は正しくは「挑ませる」だ。 The job challenged me. とは言っても I challenged the job. とは言わない。当たり前だが「仕事が私に挑ませる」としても「私が仕事に挑ませる」はおかしいのだ。 "challenge"の目的語が人ならOKだけど(例: I challenge him. 私は彼に挑ませる)、物に挑ませても仕方ないのだ。ちなみに "challenge" の名詞はそのまま「挑戦」でいいです。
と、いうことは "challenging job" は「仕事に挑戦すること」ではない。「仕事に挑戦すること」と訳したとすれば、仕事を目的語にとった動名詞ということになるが、前述したように仕事に挑ませても意味が無いのだ。この場合 "challenging job" とは文法的に言うと現在分詞に修飾された名詞すなわち「挑ませる仕事」なのだ。
で、自分の経験上での事なのだが、仕事というのは何でも大枠で「仕事」ではない。単に賃金を得るための仕事、自分への課題としての仕事、社会的な役割としての仕事・・・、色々ある筈だ。英語で一般的に "challenging work" というと、やりがいのあるそれなりの仕事、例えば医者とか弁護士、学校の先生…を指すことになる。まぁ人によっても違うだろうが社会的な役割ではそうなるのであろう。で、結局仕事ってその人なりの "challenging work" でなければ長続きはしないのだ。「好きだからこの仕事をやっている」と人はよく言うけど、でも正直言って好きな事でも仕事にしたら逆になることも結構あるぞ。簡単な仕事、続けても先が見えてしまう仕事、多分そういうのって面白くない。自分の苦手な部分を敢えて自分の仕事とする。自分を成長させるために仕事をする。そのくらいでなければ仕事にやりがいなんて感じられる筈がない。

わんたん―1から覚える英単語集
この前、本屋で見つけた「わんたん」。犬好きの方にはお薦め。「見出し語は最重要846語を厳選。センター試験過去10年分のデータをコーパス化し、出題頻度の高い語を、中学・高校教科書、各種語彙リストなどと照らし合わせて徹底分析しました。・・・」とのこと。レベル的には高校中級程度(英検準2級)くらいかな。社会人で、もう一度英語をやり直そうなんて人には良いと思う。そこら中に犬の笑える写真が散りばめられているので、変に勉強だなんて意識しなくて済むかも。
実際、英単語を覚えるのに王道なんて無い。どんな手段を使ったとしても覚えた者勝ち。書いて覚え、見て覚え、聞いて覚え、或いは接頭辞や接尾辞の理屈から覚え、さらには通学、通勤途中で覚え、風呂場でも覚える。ある時、一人の子に「え~書いて覚えるの?そんなの今時ナンセンスだよ~。」なんて言われて怯みそうになったけど、よく考えればSF映画さながら「脳にダイレクトでインプット」なんて方法はまだあり得ないので仕方ない。さらには人間、覚えたものは放って置けば必ず忘れる。一度完全に覚えたから「あ~良かった」なんて事まずない。コンピューターのハード・ディスクとは違うのだよね。特に日本人が日本に住みながら英語を持続させるためには継続的な勉強が不可欠。たとえ外国人の伴侶がいようとも会話と読み書き英語は別だもの。難しい単語ほど使用頻度は低いので、それらを忘れぬための努力が必要になる。とにかく繰り返し、繰り返しということなのだ。
(ただ、暗記法に一つだけ必殺技がないこともない。ここで書いている「繰り返し」という主旨にそう方法なのだが、・・・それはトイレの中。トイレで自分が座る目の前に、覚えるべき単語を貼り出すのだ。と、何もする事がないので、嫌がおうにもそちらに目が行ってしまうのだ。さらに毎日繰り返しである。実に生活に密着した学習法なのだ。)
このタイトル、なんのこっちゃ?ですが、英文法のことです。最近の英文法の体系として「開放系」「閉鎖系」という分類の仕方があるのです。これって日本語にも応用できるし、実は比喩的に「社会一般の在り方」にも通用するかな、なんて思い書いてみました。従来、英文法の単語の分類はわりと根拠無く?8品種(だって助動詞や冠詞、疑問詞はこの8品種に含まれていません)ということになっていたのですが、こちらはさらに大雑把です。分け方は単純明快で、言葉数が無数にある品詞を「開放系」、数に制限があるものを「閉鎖系」とします。
詳しくはロングマン「Longman Grammar of Spoken and Written English
」をお読み下さい。
開放系→名詞・動詞・形容詞・副詞
閉鎖系→代名詞・助動詞・前置詞・接続詞・冠詞・疑問詞
例 A man has choice to begin love, but not to end it.分かりやすいでしょ。ちなみに「開放系」が多く使われている文は日常会話です。逆に「閉鎖系」が多く使われるのは学術論文やニュース記事ということになります。で、結局、文というのは「開放系」だけでも「閉鎖系」だけでも成り立たないわけですね。内容を表す言葉と、それをまとめる言葉によって成立する。きっと社会ってのも、こんな役割分担から成り立っているのでしょうね。(あれ?もう結論になっちゃたかな?)世の中、多彩な意見、内容が数限りなくある。でもそれを単なる一意見ではなく、形として成り立たせるには機能語(機能を有する人達)が必要。でも、もしかりに機能語が勝手に働きだして、「しかし」と言うところを「そして」なんて変えられちゃったら、意味としてはまったく逆になって、非常に困ったことになる。さらには、その役割分担がずっと同じ一個人で続くというのも、ちょっとまずい。だって「The Times They Are A-Changin'~」だし「諸行無常の鐘の音(中略)盛者必衰の理をあらわす」個人も時代も変化するのだから。
(人は恋をはじめる自由は持っているが、勝手にそれを終わらせる自由は持っていない。)・・・(>なんでこんな例文出してしまったのだろう?)
上記文を「開放系」「閉鎖系」で単語分類すると「閉」「開」「開」「開」「閉」「開」「開」「閉」「閉」「閉」「開」「閉」となります。
この前「ダーリンの頭ン中」という本(漫画…といっても言語学の啓蒙書のような内容)を読んでいたら、ちょっと気になる部分があった。
例えば、アメリカでは学校とかで文章を書くとき、なるべく「受け身(受動態)」の文は最小限にすべきと教わるそうな。そのほうがクリアーで、筆者の責任に基づく文章になる、という事らしい。「~とされている」「~と言われている」「~が求められている」…確かに日本人は受け身を多用する。と、いうことは日本人は自主性が無く、責任回避の姿勢な訳か…。
ん~そうかな?自分の頭の中に浮んだのは、英語の動詞と日本語の動詞の根本的な違い。英語は日本語より他動詞を多用する(ここの部分、自分の判断です。もし違っていればこの記事全て無効です。でも、そうだと思うのだけどな…)。他動詞(目的語を必ず必要とする動詞)というのは、もとに使役(~させる)の意味合いが含まれる。考えてみれば当たり前。自動詞の「自」は自分がするから、他動詞の「他」は他者がするから。日本語の例で言うと「私は外に出る」の「出る」は自動詞。「私は外に猫を出す」の「出す」は他動詞(他動詞の「他」とは目的語にとっての他者)。他動詞の場合、意味的には「私が猫を外に出させる」わけです。で、英語の場合は「再帰法(目的語に~selfを使う)」というのがあって、他動詞でも自動詞の意味合いを持たせる事が出来たりもする。例えば英語の「sit」は自動詞では「座る」だけど、他動詞では「座らせる」になる。自動詞はあるのだけど何故か「I sit.」なんてあまり言わない気がする。自分が座った場合もわざわざ他動詞を使った再帰法で「I sit myself down.」なんて言う。
さらには「感情を示す他動詞」なんて、もっと顕著。それらは殆ど「~させる」の意を持つ (例:amuse, confuse, content, depress, disappoint, interest, surprise…)。こういう単語は皆、例えば「驚く」ではなくて「驚かせる」、「~させる」の意。よって、これらを普通に自分の自発経験として使いたければその受け身形「~させられる」を使い「~した」ということになる。(尚、現在ではその結果、これらの単語の過去分詞は形容詞化している。)
例 The dog surprised me. (その犬は私を驚かせた。)↓
I was surprised at the dog.(私は犬に驚かされた。→驚いた。)
なんだか専門的でちょっと解りにくくなっていますね。結論を急いだほうが良さそう。要するに英語は他動詞を多用する傾向があって、すなわち自分をも含む世の中の事柄を「~させて、~させられる」と見る傾向があるということ。感情を表す表現など特に「~する」の自発ではないわけになる。「嬉しい(happy)」という形容詞はあっても、「喜ぶ」という自発的な動詞は無い。この場合は「喜ばせる(please)」か「喜ばせられる(be pleased)」かのどちらかという事になる。(自動詞、絶対無いわけではありません。delightとかある。でも使用頻度は低い。)
多分これはキリスト教という一神教の宗教観から来ているのかもしれない。自分達は神の御心の中で生かされている、感じさせられている…という感覚かな?でもそう考えると、どうだろう…日本語には最終的に受難者となって責任をとってくれる人間は誰もいないわけだ。自分の発言はもろ自分に降りかかってくる。別にどちらが自発的だなんて文化論はどうでもいいのだが、だからこそ日本語は、責任という事をよく知っているからこそ、逆説的に受け身の言い回しが増えてくるのじゃないかな…。
やっぱり母音(vowels)の前の"the"は「ザ」でも「ディ」でもどちらでも良いようです。(当然このカタカナ表記の発音ではありませんが)「ディ」のほうがどちらかというと文法的には正しい(grammartically correct)ようですが、それによって知性を問われるようなレベルのものではないようです。国の方言によっては全部「ザ」です。それから"stone roses"も「ローゼズ」でも「ロージーズ」でもどちらでも良いようです。
発音というもの、思ったほど厳密なものではありませんね。発せられる音や言葉が先であって、後から表記や文法が着いてくる。だから表記からだけで、こう発音せねばいかん、ということではない訳です。発音よりは文法的に文を組み立てられないのは多少知性を問われるようです。"sentece, please"なんてね、相手に丁寧であるかどうかの基準にもなるみたいです。確かにそうですよ。日本語でも喫茶店でコーヒー注文するにも「コーヒー。」で済ますのと「コーヒーお願いします。」では人間の質、品性が問われる部分ですものね。
今日、車を運転していたら隣を走っていた女がタバコの吸殻をポイ捨てした。はじめは何気に、タバコを吸ってるな、だけだったのだけど、その後案の定と言うか、唖然と言うかやはりポイ捨てしてくれた。見ると車のダッシュボードには綺麗にお人形さんが並んでて、例の如くハイビスカスなど飾ってある。車の中は物凄く綺麗にしてある。さらには子供と思われる小さな女の子も乗っていた。
その時解ったね。「あ、この人の住む世界って物凄く狭いんだ」って。多分その女の人は、自分の家の中もきちんと整理して綺麗にしてあるんだと思う。綺麗好きなのだろう。でもいかんせん、その人の持つ世界は、自分の車の中と自分の家の中だけ。本当に狭い世界。他の世界は自分の世界ではないから、平気でゴミを散らしたり、タバコをポイ捨てしたり出来るのだろう。地球って、宇宙ってこれだけ広いのに、その人の住む世界はたった十何坪程度、凄く可愛そうな人なんだなと思った。さらには車という密閉された状態の中で子供を乗せながら平気でタバコを吸ってた訳だけど、多分その人は「自分の子供なのだから、どうしようと、どうなろうと、親の勝手でしょ。」みたく考えているはず。子供は社会全体のもの、地球全体のもの、自分達の未来を背負ってくれる宝、みたいな考えは毛頭無いのだと思う。多分私有物、所有物について、間違いの教育の中で育ったのだと思う。
この世界、この自分の「見る世界」を自分の物に出来ない人達って、けっこう多いのじゃないかな。
Moby/18
We are all made of stars
今年度、うちのフライヤーに入れた文章です。英訳してみました。
The goal of drawing
To be direct, the goal of drawing is to get harmony. It doesn't matter if the shape in your pictures goes the wrong way. For example, a certain painter said "Art is an explosion" though, it is just about eagerness and mood for painting. Either way, we need to to creat harmony in our pictures. In realism some artists might also insist on the words "texture" and "volume" though, if we can succed to make harmony in our pictures, those words also don't matter.
Look at the right figure. Believe it or not, the gray tones both A and B are the same. Only one thing I can say is light and shade should be turned and turned to get harmony. In this point, what we mustn't misunderstand is stereo-type ideas such as "Light equals good" or "Shade equals bad". Pictures can't consist of only light parts or dark parts. "Light and shade" is equal to "harmony". They are not the antimony but the unity. Human's eyes always try to see the things as harmony because of the constant motion of our eyes. (Do you know it's the main reason why we saw A and B as different tones?) It is normally that we need to see somethings which are different for us to see more clearly and immidiatly. Then we can distinguish the things or equate them clearly. It's so-called "recognition". But the harmony which were constructed before we draw or paint sometimes interfere with our drawing or painting. The paint is real-time, the step before we get to recognition in our brains. So let's draw. And then we can understand how deep painting is. Painting is interesting!
唐突ですが、英語の勉強です。あなただったらどんな風に訳しますか?
1. I think that that that that that writer used is wrong.
2. Give a little space between king and and and and and queen.
3. A cannner can can anything he can can, but he cannot can a can, can he? ※cannner 缶詰屋
訳 1. あの作家が使ったあの「that」は間違いだと私は思う。
I think that that that that that writer used is wrong.
1のthatは接続詞that(that節)。2のthatは「あの」の意。3のthatは単語「that」。4のthatは関係代名詞。5のthatは「あの」の意。
2. 「king」と「and」、そして「queen」と「and」の単語の間にもう少しスペースを開けなさい。
3. 缶詰屋は缶詰にできるものなら何でも缶詰にすることができる、でも缶は缶詰にはできないよね。 canはこの場合、助動詞(できる)、そして名詞(缶)と動詞(缶詰にする)で使われています。
今日のお題は「役に立たないもの」・・・。それは数字の間に打つ3ケタずつのコンマ。確かに英語圏だったら便利だよね。右からthousand, million, billion, trillionって確認しながら読める。英語は「一、十、百」と3ケタずつで次の単位に変わる。

でも日本語の場合は3ケタではなく、4ケタずつのコンマが正しい。
日本語は「一、十、百、千」と4ケタで次の「万」や「億」「兆」の単位に変わる。実際、自分は小学生に「大きな位」を教えるとき、「4っつずつに区切って読みましょう」と教えている。その方が断然、読みやすくなる。なのに何故お金の計算や帳簿付けでいちいち3ケタコンマを打っているのだろう?税務署や普通の銀行員がサウザンドやミリオンと数えているわけない。商社や外資系でもない限り必要のないものはずだ。こんな無意味でぼろぼろな国際化のわりには、法律は「外国人は公務員にはなれない」、なんて判決だしているし、日本国の国としての秩序、体系ってどこにあるのだろうか?(以前実際、銀行員にどうして3ケタ目にコンマを打つのかたずねたところ、「二つ目のコンマで百万」を分かりやすくするためと答えてました。・・・ほんとかよ?!)