blind faith
人が何かを信じるのって、そのものの実質とかまったく関係がないですね。むしろ実質を伴わないものを人は好んで信じるような気がします。人はそれを信じている自分を信じたいのかな?
昨今騒がれている「円天」だとか「癌が治る水」だとか、あるいはちょっとさかのぼって「オーム」とかのカルト教団、冷静に考えれば絶対あり得ないって分かりますよね。なのに何故?多分、人がものを信じるってその辺の疑わしさは関係ないのだと思います。むしろ当たり前に正しいものなら信じる価値が無くなる、信仰の対象物としての価値は無くなるのでしょう。確かに宗教には教義という理屈もあります。でもそれって結局あとでとって付けたようなものばかりです。だいち、よくよく考えれば日本古来の民族信仰とかって、信仰の対象は「蛇」や「狐」や「鏡」だったりするのですよ。そこに根拠を求めるのは馬鹿らし過ぎる。実は信仰の対象物の中身、どうでもいいという事なのです。
傍から見ると「どうしてそんなの信じちゃってるのよ」と、信じている人は冷静さを、客観性をまったく欠いているように見えるのだけど、実は彼ら信じられないほど客観になりきっているんですよ。何故なら彼らは主観を喪失しているのですから。「客観的に判断」とか言うけど、それって結局主観の中、自分の持つ知識や経験の中で行う作業なのです。そうでない客観なら結局他人を受け入れる、そのまま流される自己喪失の自分が客体になりきる客観という事になる。きっと、どこかで論理のすり替えが起きるのでしょう。例えば信じさせる側(騙す側)は相手に客観を要求する。その客観は徹底的に相手を自己喪失、自己否定するように仕向けるはずです。で、実は主観を失うのって生き方としては楽だったりするのですよ。
人がものを信じるという仕組み、結構面白いですね。これって宗教だけではないですよ。意味の無いアイドルのファンになるとか、男女間の事とか、あるいは政治家を応援するとか、国を信じるとか、信じる行為全般に言えると思います。多分人間は始めに「信じるありき」なのです。それは何故なら人間は群れをなす動物で、一人では生きていけないからでしょう。で、その対象物が微妙ですね。。。害の無いものだったら好いのですけど。




コメント
ごきげんよう、mars様。先日は拙所にコメントくださり、ありがとうございました。こちら様をいちぶ拝読させていただきましたが。いずれも自分なりの言葉でじっくり深めた思索に富む内容で、好感が持てます。こうした日常的なささいなことに、思考のひっかかりをつけるのって大事だと思いますね。私が気になったのが、この記事です。
>多分人間は始めに「信じるありき」なのです。それは何故なら人間は群れをなす動物で、一人では生きていけないからでしょう。
信じるという心の機能はたしかに、人間特有のものですね。なぜ信じたいかというと、安らぎを得たいからです。信仰の対象をおなじくすることで、人とつながりたいと思うのは、自分が信じているものの価値を高めたいから。そのために価値を数字におきかえているんですね。数字というのは万人に判りやすい指標だから。新興宗教にしろ、いっけんつまらなく無駄だと思える大ヒット商品にせよ、信じる対象の内容を問うのでなく、数に頼んで示しているのです。オンリーワンの価値をもちたいひとは、このような見かけの数値には騙されないでしょう。でも、あるものが唯一で特別だとと思わせるためには、多くの信奉者が必要です。難しいですね、このへんが。
信じるものを無批判に、盲目的にうけいれることは怖いことです。でもだからといって、なにもかも疑ってばかりでもいられないですね。私は自分で何度も疑って疑って、けれどどうしても信じきれるものだけを信じていきたいと思います。それができる人は、声の大きさや語り口の数や、あたりさわりのいい言葉やイメージに惑わされないはずです。デッサンをするように、物事の本質を抽出することができるひとなら、それは可能です。この記事に反論を許していただくとしたら、日本古来の民俗信仰は、たしかに根拠のなくばからしいものですが、私はこれには価値があると考えます。蛇とか狐とか、石とか木とか、人格のないものに神が宿るというシャーマニズムは、西洋の合理主義に飼いならされた近代人に憧憬をもってうけいれられてきましたし。それにそういった神がかりめいたものは、いまでも日本という文化の根底にあるものです。多くの優れた物語のイメージの元になっていますし。私は利得のからむ宗教ではない、個人単位の信仰ならば、害悪がなく微笑ましいと思うのです。あと、なにかを信じて、信じつづけることは幸せをひきよせる力になりぁw)ワす。
投稿者: 万葉樹 | October 28, 2007 10:00 PM
万葉樹さん、
丁寧なコメントありがとうございました。
先程夜中、家に帰宅したのですが、今日の月は特別大きかった。。。ご存知ですか?大きい月は必ず水平線近くに他の背景と一緒にある。一方小さい月は必ず夜空の真上に昇る。要するにこれが錯覚です。ヤクザのボスは周りにたくさん子分を引き連れて自分を大きく見せる。月の大きさはどこにあろうが変わるはずがないのに、簡単に人は騙される。「それにしても今日の月は大きかった。オーラも出てた。」
万葉樹さんのおっしゃる通り「数」なんですね。数が錯覚の客観を作り出す。人は「この目で見たのだから確かだ」と言うのですけど、その目自体が確かでないんですね。何故学校ではそういうことを教えないかな?いかに物をしっかり見たとしてもそこには錯覚がある。デッサンの勉強をすると実はそういうことがよく分かる。
それから万葉樹さん誤解しないでください。わたしはシャーマニズム批判はしていません。キリスト教以来、神の言葉=ロゴスと論理=ロゴスが一緒くたにされている。それが問題なのだと思います。思うに、実際は神が言葉を吐く必要はないんですよね。
(それから、またこちらの不具合で一部コメントが文字化けしてしまいました。どうぞお許しください。)
投稿者: mars | October 30, 2007 4:08 AM