コンビニ文化
今日見た華やかな文様はセブンイレブンの東京ぼん太でした。半径5m以内は強烈なオーデコロン臭で、むせるような息苦しさを感じました。腕から首にかけてしっかりと分厚い線で彫りこまれた唐草文様は本人の内面存在とは裏腹にかなり強烈な個性をかもし出していました。多分本人様は自分が東京ぼん太である、ということには気づいていらっしゃらないんですね。通例のごとく単にマテリアルとして存在する若い女も随行していました。
何故にそこまで自己主張しなくてはいけないのでしょうか?あるいは音楽活動や芸術活動で自己の存在をアピールする手段はないのでしょうか?やはりコンビニなんですよね。どうもその手の空しい自己主張をおこなう若者、わたしから見るとコンビニにつながる。わざと他人に聞かせるためか必要以上に大きな声で会話する若者。靴を引きずって歩きけっこうなノイズを立てる、あるいは下駄を鳴らして歩く若者。
いまだに平成(昭和?)バブルの文化遺産です。閉ざされた空間の中で土地転がしをし実質価値ではない物の価値が、まかり通ってしまう。意味内容としてはそのものです。24時間営業で無意味にエネルギー消費をし、食べ物を大量廃棄し、posシステムでまったくポリシーを持たずに売れる物だけを店に置くコンビニエンス・ストアー(知ってます?コンビニって最初から廃棄分も含めた弁当発注をしているのですよ。)=コンビニに集う若者達=亀田家(=TBSあるいはテレビ局全体)。大雑把ですがこの辺のライン、つながりますね。例えばテレビ局はもう終わっている問題なのにこれでもか、これでもかと亀田家を露出させて迫ってきますものね。正直オーデコロン臭で、むせたときと同じ気持ちになります。若者は自分の内面存在があやふやな程に外面存在を主張しなくてはならない。多分テレビ局自体がもう自分たちは終わっている事に気づいているのかもしれません。



