a long December
Counting Crows/ Recovering the Satellites
最近「めぐる季節・・・」という言葉を使う邦楽の歌詞が耳に付きます。具体的に誰の?とたずねられてもまったく答えられません。わたし、邦楽ほとんど聴きませんから。聴かないのにもかかわらず耳にするってことは結構使われているはずですよ。もちろんオリジナルというか、一番有名なのは知っています。松山千春の「季節の中で」ですよね。わたしでも知ってます。その曲、そうとうインパクトありましたもの。わたしが思うに、彼の曲を知っていたなら自分の曲に「めぐる季節」なんて使わないと思うのですが。何故なら、そんな言葉使ったら「食われて」しまうもの。ということは、最近よく耳にする「めぐる季節・・・」、多分彼の曲を知らない世代が作っているんじゃないかな。(ここで使っている『めぐる季節』という言葉は最近の邦楽の歌詞内容を表出する単なる一例なわけですよ)
で、さらに松山千春知らないだけじゃなく「めぐる季節」という言葉の重み自体、まったく知らない人達がその言葉を使っているような気がしてならないのですけど・・・。どうしてこの"A Long December"という曲でこんな事言っているのか分かる人には分かってもらえますよね。
A long December and there's reason to believe
Maybe this year will be better than the last
I can't remember the last thing that you said as you were leavin'
Now the days go by so fast
And it's one more day up in the canyon
And it's one more night in Hollywood
It's been so long since I've seen the ocean... I guess I should
人生って実はしょぼいですよね。綺麗事でとっちゃん坊やにコンクルージョン歌われてもね。市役所で自分よりどう見ても15は年下の公務員に「ちゃんと市民税納めてくださいね」って言われているような、そんな気持ちにしかなりません。学食「風月」のナスの肉詰めは、肉とは名ばかりで半分以上は小麦粉だった。上にかかっていたミートソースも、何やら赤い液体にとろみが付いているだけでどう考えてもミートソースではなかった(今極端に、分かる人しか分かっていませんね)。でもそれでも肉を食べているという満足感はあった。思い出してください。子供の頃、マルシンハンバーグが弁当に入っているということはこの上もない贅沢だったはずです。さらには、世の中には希望的観測や「信じる、信じない」ではどうにもならない事柄、実は山ほどあったりもします。
単にジェネレーション・ギャップで攻めてしまいしたが、それだけでもないですね。自分が経験していようがいまいが一般論として曲を作ってしまう。最近の邦楽の詞内容、水墨画に近いものがあります。自分の眼で見た風景ではなく世間一般の共通概念を、山水という共通形式で描くわけです。主語がガンガンに省略される。あるいはそれでさえも実は、その時点での作者のギリギリの心理状態の告白なのかもしれない。でも、だったらどうしてそんなに薄く聴こえてしまうのでしょう(わたしだけ?)。「苦しい、悲しい」とか「信じる、信じない」とか直接的に心理状態をあらわす言葉ほど実はピンと来ない。作者が基盤を置くリアリティー自体が薄いから?としか言いようがありません。
と、一応書きました、が世間ではわたしのほうが実は異物なのですよね。その手の歌詞は日本では充分に心地良く、皆に受け入れられているのです。・・・いいです。わたしが異物ということでOKです。



