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indifferent

"different"は「異なった」「独特の」という意味ですね。だとすれば、その言葉に"in"という否定の接頭辞が付いた"indifferent"は「異なっていない」すなわち「同じ」となるはずです。しかしそうではありません。その言葉の意味は「無関心な」「冷淡な」「どうでもよい」となります。

多分実際の言葉の成り立ちとしては、二つの物に差異があるかどうかによって起きたのでしょう。

例えば、今眼の前に二つのパンがある。それを二人の人間が食べようととしている。しかし、あきらかにそのパンには量的に差異がある。この場合は二つのパンは"different"「違う」となるわけです。二人の人間はパンの取り合いのため、戦いを始めるかもしれない。一方その二つのパンが量的に差異がない場合は「差異がない」→「どうでもよい」となる。二人は戦いをしない。そして実はこれが"indifferent"肯定派の論拠でもありますね。差異は良くない。当然です。しかしそれを無くすためにどうするかということなのです。わたしが思うに彼ら、論理的に一つ飛び越えてしまっている。これって現代社会を表出する陥穽な気がします。当然誰しも差異は嫌です。平等に物を分け合えば戦争は起こりません。だったら差異を無くすよう努力をすればよい。多分世の中「同じ」、あるいは何かが公平に分配できるなんてことないでしょう。しかし分配の努力は無駄ではないはずです。しかし彼らはそれを飛び越え「どうでもよい」肯定になってしまう。わたしが言及していることわかります?例えば社会主義、資本主義の二大イデオロギーの現状に近いですね。片方が実践として頓挫してしまったために、もう一方に全ての重心が移行してしまう。しかしその一方もはなから充分に完結できる体系ではなかったのです。よってミディオーカーはいつでも一番安易な道を進むことになる。

今挙げたのは人対物の例ですが、人対人の例はもっと面白いです。人間には本能として「群れ」があります。

人間は他者と同じであることを本能的に望むのです。それによって男女は結ばれ家族ができ社会ができる。しかし実際は他者と自分が同じになることはあり得ない。"same"はあり得ない。同一だと望む人間ほど傷つくことになります。よって人は傷つくことを回避するがゆえに"different"のもう一つのアントニム"indifferent"を選択するしかなくなるのです。わたしが思うに自己を確立していない人ほどこの傾向は強くなる。例としてはいまいちですが、イージーライダーが撃たれたのは彼らが麻薬を吸ったからでもお金を盗んだからでもないですよね。彼らは、彼らを撃った南部の青年から見て単に異物だったからです。異物に攻撃をしかけるのは差異に対する脅威から起きるのです。発生においては"indifferent"の冷淡さと同じ場所、すなわちアイデンティティーの薄さです。

世論というのは、戦争責任者、独裁者、巨悪、等々個人としての悪に焦点を当てたがるものです。しかし個人の悪の力など実は微々たるもので、それを支えているのは社会の"indifferent"派だと思えるのです。世論というのがまた曲者でね、ときに"indifferent"派そのものの意志であったりする。エンデの世界で言えば「無」や「灰色の男達」、あるいはどこかで聞いたブルーミーニーズのような観でしょうか?荒唐無稽ではないですよ。かなり強い力です。だからわたしは国民投票制も反対なのです。人間の科学はこれほどまでに進歩したのに、何故新しい、お金や富の分配に関する体系はできないのでしょうか。個人や個性の差異は当たり前に尊重し、物質的な所有の差異はなるべく少ない方向にする。そんなに難しい事でしょうか・・・。

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