だそうです。自分で確立できていないアイデンティティを他のもっと大きなものへの依存によって補いたい。依存や寄生によってしか自分の存在を確立できない。こんな大人が一杯いるのですね。たとえそれが虚構で、空想の世界であったとしても皆で信じ込めば真実に変わる。「美しい国」ばんざい。「国家の品格」ばんざい。大人の塗り絵がんばってね。
]]>最近ずっとダイエットしてます。夕飯食べてません。結構我慢できるものです。夕食って本当に必要だったのか?もう一度問い直してます。多分若い人たちには必要です。でもわたしのようなおオジゲにとっては一番要らんもののような気がしてます。わたしこれでも毎日6キロ程度はウォーキングしているんですよ、かれこれ一年半近く。ところが体重はまったく減りません。それどころかこの冬、さらにお腹がモコモコ出っ張ってしまった。ということは確実に余分なカロリー摂取があるわけです。よく考えれば「めっちゃお腹すいたから夕飯食べよう」ではなく仕事が終わったから「さて、夕飯でも食べるか」だったんですよ。ということは夕飯は別に要らなかったのですよ。多分ね。
おっと、もうすぐ2008年に突入ですね。ちょっとここで更新。・・・この後続き書きますね。
ということで「明けましておめでとうございます。」2008年突入です。
・・・てな感じで、美容院で山田さんにもダイエット話ししていたわけですよ。彼女も最近ダイエット中とのことで結構話が盛り上がったかな・・・。ところが、変なパチンコ・ガイが突然現れ山田さんを横取りされてしまった。そのパチンコ・ガイがわけ分からない。パチンコなんか滅多にしない、たまに親父に連れて行ってもらうだけだ、などと言いつつ、めっちゃパチンコに詳しいんですよ。「釘が0.1ミリ違うと云々・・・あのパチンコ屋のコーヒーは云々・・・」。どう考えてもお前パチプロだろう、と傍から言いたくなってしまう。そいつが喋くりまくりで、完璧に山田さんを独り占めされてしまった。あ~。何なんだろう。。。
そんなものですよね、人生。・・・結構です。わたしはわたしで地道にダイエットし、地道に英語を勉強し、地道に絵を描きます。
どうか皆さんの一年が良い年でありますように。
]]>日本で唯一の本格グラム・ブログmars a-prioriが2007年に"Of Montreal"のこと書かなかったらやっぱまずいでしょ。ね、ジャケもこのブログのデザインにマッチしているし。でない?ね、やっぱ2007年のベストでない?彼が"Of Montreal"ならば、わたしは"Of Ontario"だったりします???ちゃんと、あるべき音があるべき場所にあるでしょ。線や点も同じですよ。それら自身が自らの存在を欲するのです。「宇宙はどうして存在したの?」「それ自身が存在を欲したから」と言うしかない!知ってます?何も存在しない真空の世界にもエネルギーの存在は確められている。存在への渇望が宇宙のいたるところで今この瞬間にも、小さくスパークしている。太平洋のど真ん中で撃沈したオッド・ジョンも、深海の底からまだ信号を送り続けています。彼は、大きなくもの巣に引っ掛かった、人間の言葉にならなかった言葉を操りはじめる。
わたしの今一番気に入っているのは9曲目"Faberge Falls for Shuggie"。オーバードライブなローズ・ピアノがなんとも言えません。こんなのあったようななかったような。それを顕著な表出として実現させるのが芸術なのですよ。ポロックのドロッピングもデ・クーニングの「引きちぎる線」も、この世にあり得ないエイリアンの偶然ではないのです。いちばん古典的な人間の本能に語りかける線なのです。突飛で奇怪でキワモノ・アブノーマル・プレイが芸術、というのはもう止めましょう。"Of Montreal"もグラムでサイケなキワモノ?ではないですよね。音を線や点の代わりにして、見事に作りこんでいる造形芸術です(シュールとか、マニエリスム的エピゴーネンではなく『造形』という言葉がピッタリです)。NHKの日曜美術館ではないのだから、絵の裏側を読み取るのは止めましょう。絵は読むものではなく見るもの、音も読むのではなく聴くものなのだから。・・・そうすればきっとオッド・ジョンの信号が聞こえてくる。
]]>多分実際の言葉の成り立ちとしては、二つの物に差異があるかどうかによって起きたのでしょう。
例えば、今眼の前に二つのパンがある。それを二人の人間が食べようととしている。しかし、あきらかにそのパンには量的に差異がある。この場合は二つのパンは"different"「違う」となるわけです。二人の人間はパンの取り合いのため、戦いを始めるかもしれない。一方その二つのパンが量的に差異がない場合は「差異がない」→「どうでもよい」となる。二人は戦いをしない。そして実はこれが"indifferent"肯定派の論拠でもありますね。差異は良くない。当然です。しかしそれを無くすためにどうするかということなのです。わたしが思うに彼ら、論理的に一つ飛び越えてしまっている。これって現代社会を表出する陥穽な気がします。当然誰しも差異は嫌です。平等に物を分け合えば戦争は起こりません。だったら差異を無くすよう努力をすればよい。多分世の中「同じ」、あるいは何かが公平に分配できるなんてことないでしょう。しかし分配の努力は無駄ではないはずです。しかし彼らはそれを飛び越え「どうでもよい」肯定になってしまう。わたしが言及していることわかります?例えば社会主義、資本主義の二大イデオロギーの現状に近いですね。片方が実践として頓挫してしまったために、もう一方に全ての重心が移行してしまう。しかしその一方もはなから充分に完結できる体系ではなかったのです。よってミディオーカーはいつでも一番安易な道を進むことになる。
今挙げたのは人対物の例ですが、人対人の例はもっと面白いです。人間には本能として「群れ」があります。
人間は他者と同じであることを本能的に望むのです。それによって男女は結ばれ家族ができ社会ができる。しかし実際は他者と自分が同じになることはあり得ない。"same"はあり得ない。同一だと望む人間ほど傷つくことになります。よって人は傷つくことを回避するがゆえに"different"のもう一つのアントニム"indifferent"を選択するしかなくなるのです。わたしが思うに自己を確立していない人ほどこの傾向は強くなる。例としてはいまいちですが、イージーライダーが撃たれたのは彼らが麻薬を吸ったからでもお金を盗んだからでもないですよね。彼らは、彼らを撃った南部の青年から見て単に異物だったからです。異物に攻撃をしかけるのは差異に対する脅威から起きるのです。発生においては"indifferent"の冷淡さと同じ場所、すなわちアイデンティティーの薄さです。
世論というのは、戦争責任者、独裁者、巨悪、等々個人としての悪に焦点を当てたがるものです。しかし個人の悪の力など実は微々たるもので、それを支えているのは社会の"indifferent"派だと思えるのです。世論というのがまた曲者でね、ときに"indifferent"派そのものの意志であったりする。エンデの世界で言えば「無」や「灰色の男達」、あるいはどこかで聞いたブルーミーニーズのような観でしょうか?荒唐無稽ではないですよ。かなり強い力です。だからわたしは国民投票制も反対なのです。人間の科学はこれほどまでに進歩したのに、何故新しい、お金や富の分配に関する体系はできないのでしょうか。個人や個性の差異は当たり前に尊重し、物質的な所有の差異はなるべく少ない方向にする。そんなに難しい事でしょうか・・・。
]]>Free Music Zillaの設定をします。Tools>Preferences>MonitoringからCustomにチェックを入れ"Browser..."ボタンからMarsRadio.exeのファイルパス(場所)を指定します。
その後Free Music ZillaをリスタートしMarsRadioも起動してください。曲が始まると下図のようにFree Music Zillaのインターフェイスにファイル名が現れます。あとはチェックを入れDownloadボタンを押すだけです。ファイルの保存場所は事前に設定しておきましょう。ダウンロードされるファイル名は数字の羅列だと思うので何をダウンしたのか忘れないようにその場で曲名、アーチスト名はメモっておきましょう。フリーソフトですが、ダウンロードは1日10ファイルまでの制限があります。
MarsRadioは結構幅広くジャンル分けしてありますから、聴きながら気に入った曲があれば、その場で録音感覚でダウンロードできてしまうということなのですね。MarsRadioはさて置きFree Music Zilla、実に優れものです。本家サイトを見ていただければ分かりますがLastfmだけではなしにimeem, MyspaceやRadio.blog.club等々のmp3を流すサイト(Social Music Service)にはほとんど対応しています(手に入りにくいインディー系のアーチスト達は必ずMyspaceで曲を流していますものね)。さらに実は、YouTube等のflvファイルもダウンロードできたりもするのです。
・・・ただし、ダウンロードはあくまで自己責任です。
最近「めぐる季節・・・」という言葉を使う邦楽の歌詞が耳に付きます。具体的に誰の?とたずねられてもまったく答えられません。わたし、邦楽ほとんど聴きませんから。聴かないのにもかかわらず耳にするってことは結構使われているはずですよ。もちろんオリジナルというか、一番有名なのは知っています。松山千春の「季節の中で」ですよね。わたしでも知ってます。その曲、そうとうインパクトありましたもの。わたしが思うに、彼の曲を知っていたなら自分の曲に「めぐる季節」なんて使わないと思うのですが。何故なら、そんな言葉使ったら「食われて」しまうもの。ということは、最近よく耳にする「めぐる季節・・・」、多分彼の曲を知らない世代が作っているんじゃないかな。(ここで使っている『めぐる季節』という言葉は最近の邦楽の歌詞内容を表出する単なる一例なわけですよ)
で、さらに松山千春知らないだけじゃなく「めぐる季節」という言葉の重み自体、まったく知らない人達がその言葉を使っているような気がしてならないのですけど・・・。どうしてこの"A Long December"という曲でこんな事言っているのか分かる人には分かってもらえますよね。
A long December and there's reason to believe
Maybe this year will be better than the last
I can't remember the last thing that you said as you were leavin'
Now the days go by so fast
And it's one more day up in the canyon
And it's one more night in Hollywood
It's been so long since I've seen the ocean... I guess I should
人生って実はしょぼいですよね。綺麗事でとっちゃん坊やにコンクルージョン歌われてもね。市役所で自分よりどう見ても15は年下の公務員に「ちゃんと市民税納めてくださいね」って言われているような、そんな気持ちにしかなりません。学食「風月」のナスの肉詰めは、肉とは名ばかりで半分以上は小麦粉だった。上にかかっていたミートソースも、何やら赤い液体にとろみが付いているだけでどう考えてもミートソースではなかった(今極端に、分かる人しか分かっていませんね)。でもそれでも肉を食べているという満足感はあった。思い出してください。子供の頃、マルシンハンバーグが弁当に入っているということはこの上もない贅沢だったはずです。さらには、世の中には希望的観測や「信じる、信じない」ではどうにもならない事柄、実は山ほどあったりもします。
単にジェネレーション・ギャップで攻めてしまいしたが、それだけでもないですね。自分が経験していようがいまいが一般論として曲を作ってしまう。最近の邦楽の詞内容、水墨画に近いものがあります。自分の眼で見た風景ではなく世間一般の共通概念を、山水という共通形式で描くわけです。主語がガンガンに省略される。あるいはそれでさえも実は、その時点での作者のギリギリの心理状態の告白なのかもしれない。でも、だったらどうしてそんなに薄く聴こえてしまうのでしょう(わたしだけ?)。「苦しい、悲しい」とか「信じる、信じない」とか直接的に心理状態をあらわす言葉ほど実はピンと来ない。作者が基盤を置くリアリティー自体が薄いから?としか言いようがありません。
と、一応書きました、が世間ではわたしのほうが実は異物なのですよね。その手の歌詞は日本では充分に心地良く、皆に受け入れられているのです。・・・いいです。わたしが異物ということでOKです。
]]>
どうです?「めっっっちゃ」でしょう。こんな演奏しているとき人間の脳ってどうなっているのか、ちゃんと電極付けて計測してみるべきですよね。多分・・・きっと、あまり動いていないんですよ。こんな演奏しているときに限って脳の中は静まりかえっている。きっとそう思います。きっとね。ところでこれって誰だ?・・・曲はジミヘンの"Little Wing"ですよね。つーか曲が分かった人なら3割の確率でご存知か?はい、Monte Montgomeryですね。鳥肌立ちまくりのプレイですものね。彼に関しては改めて記事書きます。今回は音楽の記事ではないのです。この映像を流すために使ったフラッシュプレイヤーの事なのです。(注: サンプル映像はYouTube画質の半分に落としてあります)
以前xspfplayerというhtml埋め込み用フラッシュプレイヤーを紹介したのですが、パソコンの世界は日進月歩、あれはあれで凄かったのですが、さらにこのプレイヤーは進歩しているのですね。このJW Media Playerは音楽ファイルだけではなしにMP3, FLV, SWF, JPG,更にはRSS, XSPF and ATOMのプレイリストに対応しています。注目すべきはFLVですね。ということはYouTubeから落としたファイルが自分のサイトにアップできるのです。もちろん「YouTubeからそのまま引けばいいんじゃねーの」という意見もあるでしょうが、それだといつかはデッドリンクになる可能性があるのですよ。これぞという映像は自力で載せたい場合もあったりします。今回のサンプルはシングル映像ですが、XSPFでプレイリストを書き、それを読み込めばプレイリスト付き、要するに映像をいくつも切り替えられるフラッシュプレイヤーもできるのです。
とにかく機能豊富です。ここだけではとうてい説明つきません。外見的にも今回わたしが使ったような、わりとおしゃれな感じも可能です。さらにダウンロードしたファイルにはリソース用のflaやasも入っているのでオープンソースしちゃって良いという事なのでしょう。(ただし商用はライセンス契約が必要です)
ん~あまり親切ではないのですが、あとは自分でサイトに行って良く説明読んでもらうしかないかな。わたしもまだあちこち目を通していないので確かなことは言えないのです。例えばそのサイトではJW Mp3 Player, JW FLV player, JW Media Playerと JW Image Rotatorがダウンロードできるのですが、JW Image Rotator以外はプレイヤーとしては同じ物かも?だからタグ内flashvarsというコードのパラメータがあんなに山ほどあるわけ?それによってプレイヤーの振る舞いが変わるようになっている?というようにクエスチョン多いのです。さらに、関係ないのですがそのサイトのページランクをふと見たら8だったりです。しかもどのページに飛んでも。多分個人のサイトですよね。ん~分かりません。
MP3プレイヤーと画像ローテイターのサンプルも作ってみました。
JW Media player MP3 sample
JW Image Rotator sample (transitionパラメーターはrandomにしてあります)
JW Media Player:
http://www.jeroenwijering.com/?item=JW_Media_Player
JW Image Rotator:
http://www.jeroenwijering.com/?item=JW_Image_Rotator
readme:
http://www.jeroenwijering.com/extras/readme.html
setup wizard:
http://www.jeroenwijering.com/extras/wizard.html
swfobject:
http://blog.deconcept.com/swfobject/
追記 フラッシュの埋め込みをhtmlの<object>や<embed>からjavascriptのswfobjectに変更しました。12/2
画面の中にイメージが膨らむよう、描き出しはかなりソフトなタッチで始めます。あまり強い輪郭線は引きません。輪郭線はその物質と他の物質を隔てるもの、ではなくてその物質と他の物質の関係を表すものとして引いたほうが良いでしょう。物を描くのではなく空気を描くような気持ちです。それから入れ方(構図)は大切です。それで絵の半分は決まってしまいます。妥協は禁物です。(30分。このくらい描くのはあっという間です。ただし構図がダメな場合は何回でも描き直しです。)
わたしの場合(知ってます?天才ピカソは画面左上から順に流れ作業のように絵を描いたりしています。)天才ではないので、全体に調和を図りながら仕上げていきます。描く過程も作品の一部のようなつもりです。ひとつひとつのモチーフを描いているという意識よりは絵全体を仕上げているという意識のほうが良いと思います。(その意味ではピカソの流れ作業のような製作過程は正しく思えます。)面白いもので部分を描いていると絵のほうが次はここを描いてくれと要求してきます。ただし雰囲気に流されるのではなく、しっかりそこに存在する物が描けることは大切です。描いているうちに当然、修正箇所が出てくるのですが、それが自分自身で分かるかどうか、それがそのままその人の熟練度となるわけです。(2時間。)
「バッチリこれで完成・・・」なんて思ったこと今までに一度もありません。毎回何か、しこりが残ります。というか自分の不甲斐なさを感じます。ん~、なんとか次に活かしましょう。(6時間。多分完成。仕上がりに近くなるほど時間がかかります。)
デッサン修行僧がとり合えず分かった!? と思っていること。
「事物の存在とは事物の関係である。そしてその関係は人間が見るという行為(意志、あるいは錯覚)によって発生する。」
このふぁに~な彼をいかんせん紹介し~なむぞ、や~か、こそ。何故ならば係り結びはグラムの鉄則呪文ですよ。わかる人は分かりますね。"Levi"の名は文化人類野郎にとっては、かのレヴィ・ストロースだし、ジーパン野郎にとってはリーバイ・ストラウスなのですよ。どちらも偉大なジューイッシュです。と、すると彼もやはりであり、さらにグラムです。無敵です。
いかに無敵かはこちらをご覧ください。
"Pop Levi - Sugar Assault Me Now" 動画を開く
あのね、グラムな世界ではこれをカッコ良いというのです。ついて来れない人はついて来なくて構いません。わたしの行きつけの公園では常にアルカーイダ一派が子供たちを集めジャパ二ーズ・マーシャル・アートの伝授をもくろんでいるのです。踊りとしてはそんなもんです。心がけとしてはそれより1.2倍くらいはマシです。ビートルズ・フィギュアだったら何でも手に入れるわけじゃないですよ。"Yellow Submarine" だからです。実はイエローサブマリンってアート界では古典ですよね。映画自体の評価は低いというか、無いに等しいです。でもアートとしてはどんなけパクられて、あるいは諸芸術家をインスパイアーして来たことか。この映像に影響を受けてない人のほうが実はもぐりですね。断言します。というわけでガンダムは知っていてもイエローサブマリンを知らないアート系学生さんはぜひこの映画を見て世界標準の感性を身に付けてください。
McFarlane:
2000年 THE BEATLES YELLOW SUBMARINE SERIES 2
1999年 THE BEATLES YELLOW SUBMARINE SERIES 1
最近普通に車を運転していて普通に思います。人間ってなんてアグレッシブなんだろうって。だって、高速道路でなくても地方の幹線道路など、時速70キロ80キロ当たり前で皆飛ばしています。そのスピードで、車間距離もおかまいなしに抜きつ抜かれつしているのです。信じられません。ちょっとでもハンドル操作を誤れば確実に死ねるスピードです。実は人間と猿の違いって遺伝子的に言うと1%程度です。想像してください。おサルさんたちが鉄の固まりに乗ってそこら中でデッドヒートを繰り広げている。逃げ場のない二車線道路で、時速70キロの大型トラックがこちらに向かってくる。すれ違うことは分かっていたとしても、そのすれ違いに関してどの程度信頼を置けます?すれ違いざまにトラックの運転座席を見たとき、実はサルが運転している・・・ということに気づいたら?
よくよく考えれば毎日何万もの人間が地上どころではなく、空中を鉄の固まりに乗って移動してたりもする。なんてアグレッシブで冒険好きなおサルさんたちなのでしょうか?思うにサルのくせに肉を食い過ぎていませんか?因果関係はよく分かりませんが、肉を食べることとアグレッシブであること、関係大だと思うのですが。肉を食い始めたサルは他の動物を殺すだけではなくお互いに殺し合い、今や地球まで破滅させようとしている。
ちょっと前まで絵を描くときはYESを聴いていたのですが、どうも良くない。絵がYESになってしまう。プログレ聴きながら絵を描くのは偏執です。で、最近絵を描きながら聴いているのがDurutti Column。冗談ではなく、葉っぱを描くときはこれなのです。たぶん草食動物の音楽です。
]]>何故にそこまで自己主張しなくてはいけないのでしょうか?あるいは音楽活動や芸術活動で自己の存在をアピールする手段はないのでしょうか?やはりコンビニなんですよね。どうもその手の空しい自己主張をおこなう若者、わたしから見るとコンビニにつながる。わざと他人に聞かせるためか必要以上に大きな声で会話する若者。靴を引きずって歩きけっこうなノイズを立てる、あるいは下駄を鳴らして歩く若者。
いまだに平成(昭和?)バブルの文化遺産です。閉ざされた空間の中で土地転がしをし実質価値ではない物の価値が、まかり通ってしまう。意味内容としてはそのものです。24時間営業で無意味にエネルギー消費をし、食べ物を大量廃棄し、posシステムでまったくポリシーを持たずに売れる物だけを店に置くコンビニエンス・ストアー(知ってます?コンビニって最初から廃棄分も含めた弁当発注をしているのですよ。)=コンビニに集う若者達=亀田家(=TBSあるいはテレビ局全体)。大雑把ですがこの辺のライン、つながりますね。例えばテレビ局はもう終わっている問題なのにこれでもか、これでもかと亀田家を露出させて迫ってきますものね。正直オーデコロン臭で、むせたときと同じ気持ちになります。若者は自分の内面存在があやふやな程に外面存在を主張しなくてはならない。多分テレビ局自体がもう自分たちは終わっている事に気づいているのかもしれません。
]]>大雑把に言うと、日本には歴史的に大きな欧米化が2回ありました。黒船来航後の明治維新と昭和30~40年代の高度経済成長期です。で、おそらく多くの人はこんなふうに思っていますよね。「日本はとうに欧米諸国と経済的にも文化的にも同じかそれ以上に達している、すでに先進国としてはピークを過ぎた。」さらには、「ただしそれらは表面的な部分であって、精神的には日本人は日本人であり儒教徒兼仏教徒であり農耕民族だ」と。。。はっきり言いましょう。多分その精神的な部分も変わらなければならない、それがこの次に来る本当の欧米化だと思います。「何を根拠のない事言ってるんだ」そんなふうに思われるかもしれません。でも日本人はもうルビコン渡っちゃたんですよ。避けられないと思います。
で、根拠なのですが、それはここ10年近く続いているあり得ない数の自殺者です。平成10年から毎年30,000人を大幅に超えています。欧米化すると自殺者が増える?そうではありません。多分欧米化への顕著な過渡期なのです。経済的、文化的な部分と精神的な部分のギャップ(歪)が、これ以上耐えられないストレスとして現れてきたのだと思います。もちろん不況のせいもあるでしょう(一部の金持ち連中にとってはずっと好景気らしいですけど)(あと、小泉って何が改革なのでしょう?えせ構造改革ではどうにもなりません)。だって実際日本はもう農耕民族の国じゃなくなっているでしょ。以前の日本の社会的構造は「日本人は肉を食わない民族」の上に成り立っていたのです。確かにそれで昭和40年代の高度成長期はうまくいった。でも、もはやそれでは通用しない時代に突入したのだと思います。たとえば今現在フリーターやネットカフェ難民が問題視されますけど、彼らはやはり必然と生まれたのですよ。若者よ考え直せ、ではないです。きちっと哲学や政治を学んでこなかったインチキ学者や政治家よ考え直せ、です。いまさら終身雇用制を復活させてとかいう意見、正直あり得ません。
わたしの経験で言うと、西洋人(特にアメリカ、カナダ)と日本人との根本的なものの考え方の違い、それは「変化」に関することです。"A rolling stone gathers no moss." 一方日本では「苔のむーすーうまーで」となるわけです。もちろん誰だって変化は嫌ですよ。それについては西洋人も日本人もありません。ただ彼らは知恵を持っていた。ローリング・スートンというのは変化を受け入れ是認するための知恵なのです。農耕民族なら一箇所に留まり変化を受け入れる必要性はなかったでしょうが、彼らは狩猟民族や遊牧民族で変化を受け入れなかったら生きて行けなかったのです。日本にはこの変化を是認する哲学と、そうするために作られた社会構造がないのです。実際、今身の周りにある生活はどう見ても東洋でも日本でもなく確実に西洋なのですよ。社会構造の一部表面だけが西洋化され、根本の部分が置きざりにされてきた。でもそれがいよいよ行き詰まってきた。職業、結婚、家族、今までの一様の在り方で想定しても通用しなくなってきた。
(あの。。。自分にしては、長く書き過ぎてるかも。ちょっと結論急がせてもらいます。)
要するに「変化」と「多様化」を根本の原理としない社会や構造体は終了する。そんな見通しなわけです。(プラスチック・バッグを消費し続けるセブンイレブンは確実に終了する、のと同じです。)実社会がどんどん変化しているのにその受け皿となる社会の構造、制度ができていない。それを導く政治家がまったくいない。例えば求人雑誌に「社員平均年齢25歳のフレッシュな会社です」なんて書いてあるのは「わが社は年齢差別をする会社です」と書いてあるのと同じなんですよ。その場で、「はい終了」です。雇用制度、公務員制度、社会保険、教育、まだまだ相当な部分で欧米化が必要になると思いますよ。
]]>ん~、彼ほどラッキーな男、世の中にそうはいないですね。多分人生で宝くじ3億円10回当てるよりもっとラッキーです(ちょっと発想違うかな?)。お金の事だけじゃないですよ。周りの環境ね。だって、まずビートルズの一員だったわけだし、その後ソロになってからどれだけの超一流、豪華絢爛アーチストと共演してきた事か。まぁ実際はその超一流アーチストたちの方が「箔が付く」という事で彼との共演を望んだのでしょうが。でも、もし彼のキャラクターがポールやジョンだったら、そんな風になってませんよね。その...何と言うか、突出した才能ではないという部分も実は大切なキャラクターの一部だったのですよ。
ということで前々から調べてみようと思っていたのですが、リンゴ・スターがソロになってからの他のビートルズ・メンバーが彼に書き下ろした曲のリストです。彼が今まで共演したミュージシャンを列挙しようとも考えたのですが、それは数が多過ぎて不可能です。
John Lennon:
"I'm the Greatest"(Ringo)
"Goodnight Vienna"(Goodnight Vienna)
"Cookin' "(Ringo's Rotogravure)
Paul McCartney:
"Six O'Clock"(Ringo)
"Pure Gold"(Ringo's Rotogravure)
"Private Property"(Stop and Smell the Roses)
"Attention"(Stop and Smell the Roses)
George Harrison:
"Photograph"(Ringo)
"You and Me"(Ringo)
"Sunshine Life For Me"(Ringo)
"I'll Still Love You"(Ringo's Rotogravure)
"Wrack My Brain"(Stop and Smell the Roses)
人が何かを信じるのって、そのものの実質とかまったく関係がないですね。むしろ実質を伴わないものを人は好んで信じるような気がします。人はそれを信じている自分を信じたいのかな?
昨今騒がれている「円天」だとか「癌が治る水」だとか、あるいはちょっとさかのぼって「オーム」とかのカルト教団、冷静に考えれば絶対あり得ないって分かりますよね。なのに何故?多分、人がものを信じるってその辺の疑わしさは関係ないのだと思います。むしろ当たり前に正しいものなら信じる価値が無くなる、信仰の対象物としての価値は無くなるのでしょう。確かに宗教には教義という理屈もあります。でもそれって結局あとでとって付けたようなものばかりです。だいち、よくよく考えれば日本古来の民族信仰とかって、信仰の対象は「蛇」や「狐」や「鏡」だったりするのですよ。そこに根拠を求めるのは馬鹿らし過ぎる。実は信仰の対象物の中身、どうでもいいという事なのです。
傍から見ると「どうしてそんなの信じちゃってるのよ」と、信じている人は冷静さを、客観性をまったく欠いているように見えるのだけど、実は彼ら信じられないほど客観になりきっているんですよ。何故なら彼らは主観を喪失しているのですから。「客観的に判断」とか言うけど、それって結局主観の中、自分の持つ知識や経験の中で行う作業なのです。そうでない客観なら結局他人を受け入れる、そのまま流される自己喪失の自分が客体になりきる客観という事になる。きっと、どこかで論理のすり替えが起きるのでしょう。例えば信じさせる側(騙す側)は相手に客観を要求する。その客観は徹底的に相手を自己喪失、自己否定するように仕向けるはずです。で、実は主観を失うのって生き方としては楽だったりするのですよ。
人がものを信じるという仕組み、結構面白いですね。これって宗教だけではないですよ。意味の無いアイドルのファンになるとか、男女間の事とか、あるいは政治家を応援するとか、国を信じるとか、信じる行為全般に言えると思います。多分人間は始めに「信じるありき」なのです。それは何故なら人間は群れをなす動物で、一人では生きていけないからでしょう。で、その対象物が微妙ですね。。。害の無いものだったら好いのですけど。